”海辺のカフカ”を読みました。
ちゃんと文章を書くと、前回書いたので、ちょっと躊躇していたけど、書くことにします。
今日、アメリカでの同時多発テロ“9.11”からちょうど15年。
15年前つまり2001年、僕等が小学校一年生だったことを考えると、あっという間に押し出されてきた感覚を覚えます。
村上春樹の本が好きで、高校時代から読んでいます。
高校二年のころ、バレーボールの試合で靭帯を切断し、手術、入院したのがそもそもの契機でした。入院中の暇なこと限りなく。たぶんその当時の自分の中で初めて“なにもしない”時間だったのかもしれません。
「海辺のカフカ」はその時以来でした。
この本は中学生の少年と、同じ地区に住む文字の読めない老人が何かに導かれながら同じ場所へと近づいていくという話で、あらゆる“記憶”を一つのキーにしながら話が進んでいきます。
そのなかである登場人物が自分の日記を老人に渡し、燃やさせるという場面があります。日記に記されている「文字」を失わせることで、自分の存在を無に帰す。シンボリックなシーンです。
15年という月日。小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年。合計16年間という長い学習期間の頭と終わりの間。
この毎日を日記につけていたらどれだけ膨大な記録になっていたのだろうか、と思うと途方に暮れます。ただ一方肌実感としてはこの15年はあっという間。この相違はどこからくるのだろうかとふと考えてみたくなるときがあります。まあ考えないですが。
東京に帰ってきてから、久しぶりに連絡を取ってみたくなって、ふだん連絡の取らない高校の友人に連絡を取りました。途中足踏みを踏まなければ、みんな来年就職を迎えます。
自分が北海道に行って、空欄があるからなのだろうけれど、ちょっとわくわくしました。
あいつが○○になるのか!とか、あんなことするのか!とか想像すると。
大学の同期とかだと悔しさとか嫉妬があったりするのですが、高校の同期には自然とそういう感情は沸かなくて、純粋に10年後とかに違う場所にいるそれぞれが同じ場所で何かできたらなと、思いました。そんなことができたら楽しそう。
これは自意識過剰だからでしょうけど、どうも北海道にいると気を張って疲れてしまうので、こうして東京にいた方が案外自分にとっては自然なのかもしれません。まあそれは東京が地元だからということなのだろうけれども。
まだ札幌に帰るまでに何人かとは会えそうなので楽しみ。何話そう、何話そう。(笑)
といいつつあまり話し過ぎないことを意識しないと、ずっと喋ってっそうで心配。(笑)
いまはそんなところ。
一つのことしかできないくせに、同時にいろいろやろうとするから、いつも宙ぶらりん。
残念なことに、そういう性格なので、ひとつひとつが安定したら、ひとつひとつ足していこうかなと思っています。
こうやってその時その時おもっていることを、文字にしていくことを続けていきたいんだけど、どこまでつづくかな。
どうせ最後は燃やしてしまうけど。(炎上させる宣言ではないです)
なんとなくなんですけど、僕は就職したら、すべてをそこにつぎ込むと思います。
だから、こうして時間のあるうちに、ああでもないこうでもないと、行きつ戻りつしながら試行する時間にしようと。
正直、今年の前半で足りたと思っていました。だけど、9月頭からこうして一日十数時間、何かに思考してると、また新しく開けてきた気がしています。いま、初めて思考が一段階上がったことを実感しています。
ありがたいことに、そういう時間をいただけることになったので、みんなが思う時間の使い方ではないと思うけれども、そうすることにしました。
まあ今月やってみて考え直すだろうけど。
公務員試験のため、とか、○○のためっていう達成したいことを、つい言っちゃって、終わりにしちゃうんだけど、そんなところです。
たしかに、野望があって、夢はあるんだけど、いまは書きたくないので、また書きます。
あ、なんか文章書けるようになってきたかも、てへ。
2016.09.11
こばやし