誇りと意地と情熱を。

北大生のブログ。東京出身です。日々の何気ないことから、様々に書き綴ります。

雑感そのいち

昨日は文化の日

憲法公布から70年の節目の日。

憲法の存在を感じるのは新聞などメディアを見る時か、冗談で「表現の自由だ!」とかいうぐらいなので、こういうお休みの日は大事なもんだなあと感じた。

 

Khcoderという解析ツールがあって(無料だよ)文章の解析をしてくれるんだけど、いつか使いこなしたら自分の文章を解析にかけて遊ぼうかな。

恐らく、思うとか、感じますとかが多いかと。

なんかつい使ってしまう(笑)

 

いつだっけ。一週間ぐらい前かな。

天声人語に「おもう」の使い方について触れていた日があった。小学校とか中学校でどう教わったか覚えてないけれど、いつからか「おもう」は「思う」に統一された。

思う、想う、懐う、念うなどなど。昔はいろんな「おもう」があった。

確かに、昔のことをおもう時と、好きな人をおもう時と、考え的なおもうでは似て非なるものだよなあ。

いつの間に一つに統一されちゃったけど、その中の細かい使い分けを、言葉とか漢字でちゃんと表現できたら、とおもう。

 

何年か前に亡くなられた児玉清さんは海外ものの小説を早く読みたいばかりに原文で読むほど、本が好きだったという。そんな児玉さんが著書の中で、英語のすばらしさは奥が深いことだと述べられていた。

 

簡潔になることは良いことなのだろうか。最近の僕の日本語の使い方はあまり良くない気がしてきた。

 

(^_^)/

 

二三日前、ちょっと前に話題になった(いや今もか)「何者」を観た。

初めて新宿のTOHOで見たのだけれど、いやー他人事じゃないよなあああ。

内容には触れられないけれど、楽しめたというよりは他人事じゃない!っていうひっ迫感が何とも言えず、純粋に映画を楽しめたかというとあやしい。(笑)

ただ「就活」っていうなんともイマイチな印象のイベントが映画なるほどドラマチックなイベントだということが分かったから、それなりに良かったのか(笑)

 

そういや、この映画見た日の前にいったTOHOの横の“アジア横丁”なる屋上にアジア系の居酒屋が集まっているところ、めっちゃ面白かったよ。

めちゃくちゃ広いのに、エレベーター一つしかなくて、条例ひっかかるだろ!って感じの場所なんだけど、海外もののビール飲める店ってちょっとおしゃれというか、そんな感じだから、また違う方面でお店を知れて、ひとつ収穫。

 

いつも通りなんだろうけど、思い立って友人に電話してみたんだけど、“今年は~だったあ”って言ってたな。

もう一年を総括する時期に来てるか?!?!ってその時は思っていたけれど、よくよく振り返ると10ヶ月パスして来ちゃったのね。

 

今年は、、、、いやまだ振り返らないわ(笑)世の中で一番何もなさそうな状況にあるけど、これからまだまだある予感がするから。

 

まあその一つは体重が増えて別人になるというもの。

毎日体重計測しているんだけど、いよいよ73キロ台を推移するようになってしまった。

あれ、半年前は68キロとかじゃなかったけな???って思ってデータ振り返ってみたら、トレセンの計測器で68キロ、体脂肪率8%でデータがあった。

 

あの時はハーフマラソン目指してトレーニングしていたからだけど、って言い訳は禁物だな。

ウサギと亀の話を思い出してしまう。

年度末に練馬でハーフマラソンがあるから、出ようぜーってもうそろそろLINEしなきゃな、申込みいつだったけか。

 

体重に危機感を覚えて、昨日からランニング始めた。数字見ないといまいち把握できないけど、たしかに横腹に肉が付いてきた感じがある。

太るのは悪いことではないんだけど、おなかに肉溜まってくるのはちょっとなあ。

 

札幌はもう根雪なのかな。

SNSをだいぶ見ていないから分からないけど、例年通りだともう積もってたっけか。

札幌だったら外でランニングできないから、太るばかりだったろうな。(笑)

 

まあいうほど気にはしていないけど、肉体まで丸くなったらもうどうしようもないからトレーニングして、締め直すか。

札幌に一時戻る日まであと一か月ばかり。

春秋航空7日にきゃんぺーんやるから、そこで決めようか。

この一か月は八月の一か月より変化がある手ごたえがないから、ちょっと札幌もどって何かしら変化を感じれたら収穫だな。

 

せっかくのクリスマス時期だし、サンタ仮装でなんかやりたいな(笑)

 

2016.11.04

こばやし

「蟻とキリギリス」の話は誰しも聞いたことある話。

 

夏に働き、冬のたくわえをする蟻と、夏を謳歌し、冬に食べ物がなくなり、それを蟻に助けてもらおうとするが、断られてしまうキリギリス。

 

簡単に見ると、一時の享楽に溺れず、将来を俯瞰し計画を立てるのが大事ですよという教訓を教えてくれる物語。

 

ここで少し違う点から。

 

蟻とキリギリス、どっちが生物として優秀なんだろうか。

 

この話を見ると、蟻の方が断然賢いけれども、僕らからみたら、どちらも昆虫であり大して変わらないと思うのではないだろうか。

 

では、

人と蟻、どちらが優秀だろうか。

 

これは言わずもがな“人”というのがほとんどの回答だと予想できる。

 

さて、本当にそうなのだろうか。

というのが最近考えること。(笑)

 

この前「モーガンフリーマン 時空を超えて」というNHKの番組を見ていて、そこで紹介していたのが、

“蟻一匹一匹が人間でいう脳の神経のような働きをして、組織として一つの脳の働きをもっている”というもの。

 

僕はこれまで蟻に対して全体として一つの生物には見ていなかった。

蟻は自らが持っている習性によって巣を作り、生きているものだと。

 

ただ確かによくよく考えてみると、全体として一つの生物だ考えてみたら面白い。

 

これを人で考えてみると、ネットの世界はこれに当たるわけで、瞬時に世界中の人の頭をつなぎ全体として物事の判断を決しているように見える。

 

リーマンショックは予測不可能だったと言われているけれども、この考え方で見たら、その通り、予測できるはずがない。

 

アダムスミスの“神の見えざる手”はこの話と近いのだと思う。

僕ら一人一人の意志とは違うところでネットに繋がれて生まれた“全体=神”が判断し進んでいく。

 

コミュニケーション速度が速くなったことで、より明確にその傾向は強くなってきているのだろうね。

 

身近な生物の生態から、人間社会を考えるということが役に立つとはこれまであまり考えなかったことだけれども、番組を見てなるほど、と思った。

 

蟻は実は人間よりずっと優れた生物なのかもしれない。

 

言葉でコミュニケーションをとるのが人間のやり方だけれども、このコミュニケーションの方法を用いている生物は実は少数で、非効率なやり方なのかもしれない。

 

番組では将来は脳波をつかったテレパシーで意思疎通ができる、という話が出ていた。

 

ほんと、SFでしょ!みたいなツッコミを入れたくなる番組なんだけど、見終わるといつも“ありえるかもな”って思うのが何とも言えない(笑)

 

人間社会ができて一万年ぐらいだけど、こんなの地球と比べれば一瞬。

これ聞くと“ん?”と思うけど、いつかこれに歓喜する時がくるのだろうかな。

 

2016.11.1

こばやし

村上春樹が何年か前に書いた「1Q84」の中で「猫の町」という小説が登場する。

ある日、電車に乗って途中下車して降りた駅は夜に猫が支配する街、そこでは毎晩毎晩猫が生き、、、、みたいな話だったはず。

 

僕が初めて「1Q84」を読んだのは大学一年生の時だったから、かれこれ3年前ぐらいかな。

高校の進路相談会手伝った謝礼で買ったんだっけな。

 

まさかこのタイミングでこの話が思いだすとは思わなかったんだけど、今日の朝、それを思い出させることがあったんですよね。

 

今日の早朝、夜明け前、何時だったか、多分3時とか4時ぐらい。

なぜか猫の鳴き声で起こされた。

 

うちの近くには野良猫がちらほらいるんだけど、どうもその猫たちが騒いでるらしかった。

にゃーにゃーにゃーにゃー、うるさいんだ、これが。

ただ、子猫のようなかわいい声じゃなくて、甲高い悲鳴に近い声だった。

 

そんなんだから寝ようとしても寝れなくて、どんな様子か見てみました。

そしたらこんな感じね。

 

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「うわー、『猫の町』の世界だー」ってね。

つい自分の部屋からカメラだして、写真撮って。

 

前回、新宿の写真のことを書いたから、その次になんでもない写真を乗っけるのは考えることがあるけど、まあいいか。(笑)

 

僕は考えすぎるのが趣味だから、ただ美しい写真撮って、どっかにあげて、瞬時に何かしらのリアクションもらうのはどうも気が引けるね。

美しいってつい書いたけど、みんなが知ってるような「美しいモノ」に対して、ちゃんと自信をもって写真がとれているわけではないからかな。

 

いつだったか、夏前に札幌で人の写真撮れる機会があったんだけど、どうも自信なくてふいにしたんだけど、イメージはあるのに撮れないのは本当に悔しい。

 

スマホとかの性能の向上で画質が一眼とほぼ変わらなくなってきた中で、わざわざそれと同じようなものは撮りたくないし(出したくはないか)、結構多くの人が写真を趣味にしている中で、せっかく出すなら、そこと同じでもつまらないしね。

 

対価もらっているわけではないのだから、好きにやればいいのではないのか、というのは一理あるけれども、やりたいことはただ写真撮って保存して、気が向いた時に見返して、というために撮りたいわけじゃないから、仕方ない。(笑)

 

最近、いわゆる理系的なことを勉強しているのだけれども、これまで文系的なことをやっていたから、つい人間が絶対でその枠の中で考えてきたけど、その幅が地球とか生き物とかに広がってきて、なんか楽しい。

 

これまで自分がなんで熱をもっているのかとか考えてこなかったからね。

それとともにいかに人間中心のばかりかと。

 

人間は可視光線しか見えていない。この外にある光なんて山ほどあるのにね。

ほんと不思議なことだらけだなあ、と。

 

なんとなくだけど、大きく理系は「地球」を扱って、文系は「世界」を扱っているんだなあと理解しています。情報系とかあるけど、極端な話。

 

今日の朝、猫たちを撮ったのは、僕らと猫の接点というか、猫たちがイキイキしている時間、空間を垣間見たからからかもしれない。

 

いい感じに感性を変えれればもっと撮りたいものが撮れるはず。

 

2016.10.30

こばやし

 

新宿

 

高校時代三年間過ごした街・新宿。

副都心線が開通しなければ、僕は新宿で高校時代を送ることはなかった。

 

副都心線が開通したのが2008年だから、当時中学二年生だった僕らの年代は副都心線開通によって、新宿高校という選択肢が生まれたという人は少なくはないと思う。

 

副都心線は池袋、新宿、原宿、渋谷、そして最近では横浜まで通じるようになった。

ただ僕の地元の氷川台、平和台あたりは未だに閑散としていて、どこか埼玉県のような雰囲気がする。

埼玉を悪く言っているわけではないけれどさ。

 

母校新宿高校新宿御苑のすぐ隣にあって、向かいは映画館という好立地。

まあ大通りを挟んで向かいだから行きにくいといえば行きにくいのだけれども。

一方で繁華街からは少しばかり離れていて、新宿御苑の静けさと大都会のうるささを足して二で割ったような環境だった。

 

そんなところにいたので、いわゆる新宿というとイメージされる繁華街とは親しいというわけではなかった。

そりゃ、歌舞伎町と言われると、酒臭いおじさんとか、誰かしらに絡まれそうで、少々の怖さがいつもついて回った。

歌舞伎町=近づきたくない、こんな図式が自然とできあがっていた。

 

といっても新宿のごちゃごちゃした感じいつもそばにあったのではないかと思う。

今は見かけないけれども御苑の前とかにはホームレスの方がたくさんいたし、高校の文化祭にどこからか女装した人が入って来たり、気が付くと高校のセキュリティーが厳しくなっていたり。

 

自分の記憶しかないからこれが当たり前だと思ってしまうけれど、一般的な高校とはどこか違った環境にいたのかもしれない、と今では思う。

 

言の葉の庭』では新宿御苑を中心に美しく描かれていて、新宿っていいなって思った。

 

ただ新宿という街自体は江戸時代に交通の要所となり、人の往来が盛んになっていた中で繁栄してきた街。

ある意味で札幌のように、ここは防火のために公園を作って、こっち側には道庁、あっちは繁華街、というように人工的に作られてはいない。

そのいみでは自然な街。

 

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新宿駅の東南口から歌舞伎町の方へと歩いていた。

最初は高校生からいろんな普通の人達がいた。

そこから歌舞伎町に行った。

 

まず初めに思うのは、観光客が多いということ。

ここ歌舞伎町は数年で道路を整備したり、入りやすい街になった。

ロボットレストランの前には欧米人がたくさんいて、世界の「トウキョウ」はこのシーンで語られるのかもしれないなと思う。

チョンマゲの国だったのに、いまやSF国なのか。

武士がいると思っていた人にはどこか申し訳ない。

 

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華々しい通りとは一本隔てた、チョイ裏の道。

晴れ晴れしい表通りとは違って、淡々としたリズムを感じる裏通り。

深日常とか超日常とか呼びたくなる。

 

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赤だったり、青だったり、普段見ないような作られた色。

都会はつくられたものばかりで囲まれているけれども、その合間合間に落書きであったり、誰かが遊びで書いたんだろうなと想像したりするのは面白い。

 

新宿にはいろんな人がいる。

学生ももちろんたくさんいるし、会社帰りの人も、想像がつかないような人も。

実はたくさんの人がすぐ目の前にいたかと思うと、ひとりひとり話をしてみたかったりする。

 

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もし百人に新宿とはどういう街ですかと聞いたら、百通りの答えが返ってくると思う。

人それぞれに違った新宿があって、違った社会があって違った世界がある刺激的な街。

 

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そしてなにより懐が深いのがこの街の良いところ。

ただ懐が深いのは街であって人ではない。

集合体になるとどこか冷たい。

そう書く僕もその一部。

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「2020年」がひとつのシグナルを発している昨今。

これから街は変わり続けていくのだろうとまざまざと感じた。

どこか整然としてきれいな街ではなくて、この煩雑さを残しながらつくっていくのはかなり難しいことだと思う。

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これからこの街はどう変わっていくんだろう。

考えるだけでわくわくするし、その分、いまその時のために記録をとっておきたい。

 

やっぱ東京からは離れられないんだよな。

 

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2016.10.28

こばやし

帰順

今日は最高気温が26度を上回るのではと言われていたけれども、その通りの暑い一日。

いつまでもこの暑さを続けられると体にこたえてしまいそうだ。

片や札幌では雪が降り始めたというのだから、飛行機でたった1時間の距離なのに、環境の奥の深さというのを考えてしまう。

 

公務員になろうかと思いついてから葉や2か月がたった。

予想通り自問自答の日々が続いている。

終わった時には二度とやりたくないという思いでいっぱいになっているだろうなと、まだ4分の1も来ていないのに思ってしまう。

 

ただ自分の人生で初めて本格的に理系的な勉強を面白いと感じている。

気候変動の話、宇宙の話、生物の話、パソコンとか機会の話ETC

 

これまでこんなにも知らないことだらけだったのかと。

 

自分の体がどうなっていて、なんで眠くなったり、体温が変化したりするのか全くと言っていいほど目が向いていなかった。

 

今思うと、そこに目を向けない限り、ちゃんとしたパフォーマンスはできないし、サイクルを把握できないにも関わらず。

 

最近、ちょこっと統計を取るということがわかるようになってきて、エクセルでいそいそとデータを打ち込んでいる。

勉強時間、外出時間、体重、運動、食事、体温などなど。

ここまでくると数字が絶対に思えてしまう。

 

今日はこの科目に何時間使って、それと何科目やったから、、、と自己評価だったことをすべて数値かしたことで、ひとつ芯を通したみたいにやりやすくなった。

一方、数値で計れないことには目が向きにくい。

 

例えば映画とか。

せっかくだからこれまでの文化にも勤しもうと思っていたのだけど、評価されない(いや、評価基準に入らないものだから、結果として評価を下げる)のだから、あまりやりたいと思えない。

所詮、こんなもんだよなと諦めつつ、そのたびに評価基準を精査し、式を打ち込みなおしている。

 

実際のところ、自前でつくった評価基準が、自分が果たしたい目標の指標となっているのか、極めてあやしい。

 

ただ正確じゃないかもしれないけれど、正確とすることにしている。

 

そういえば、最近はぼんやりとつかめないものたちを、とりあえず定義することにしている。

どこか哲学っぽいところに向かいそうなテーマだと、結局のところどんづまりにいってしまうので、ある程度のところで引き返すことにした。

 

そうではないかもしれないけれど、そうだということにする。

 

と書いているうちに日本シリーズがいいところにきた。

いやー、面白い。

ビール片手にみたいものだなあ。

 

2016.10.26

こばやし

 

調和

基地反対運動に対していた府警官の差別発言、発言してしまった人や、それを擁護したと思われた人に対しての批難が起こっています。


インターネットや新聞などの媒体越しのことを純に眺められるかと言えばそうではないはずですが、ちょこっとだけ。

今回の話、なにより問題なのは、発言をしてしまった人自身に、発言自体が差別に当たることを知らなかったことだと思います。

 

北海道でいえば、アイヌの人がそう呼ばれていたのは有名な話。これも思いこみのようですが。

いまのアイヌ文化振興法の以前の名称は、それを冠せられていました。

つまり90年代までは社会一般的に使用されていたので、十数年前には改正のための議論が社会的に盛んだったことが想像できます。

 

一時の感情に任せて言っていい発言ではないですが、そもそも差別に当たることを知らないというのは、何か今までのひずみを見るようで寒気がします。

 

まあたしかに小学校や中学校のころの同期に、差別に当たるかどうかを聞いてみたら、返ってくる答えは容易に想像できるので、ひとつこれを契機に考えることはありそうです。

 

インスタグラムにこの前新宿を歩いていて摂った写真をあげています。
僕が思っている以上に新宿は何色も混ざっているような雑多な場所で、高校時代を過ごした場所とはいつも違うところをこの街から感じます。

 

人工と自然の汽水域。

 

札幌のように最初から区画され、整然としている理知的な場所も好きですけど、
新宿のようにごちゃごちゃしているうちに街ができたという、ある意味で自然な場所は刺激的でした。

人工的に自然ということなのかな。

 

なんとなくこれまで撮ってきた写真をみていると、僕はそれらの汽水域的なところに惹かれているみたいです。

 

ただ今回の差別の一件を耳にすると、いかに自然でありながらバランスをとるということが難しいかを思い知らされます。

個々人は自然であるながら、全体としては調整されている。
このバランスが非常に難しいのだなあと。

 

公務員は全体への奉仕者日本国憲法第十五条に記されています。

実は日本の人口に対する公務員数は先進国の中でもかなり低いほうみたいです。あれだけ費用抑えろという世論にも関わらず。

 

全体を相手にする以上批難されることもそれ相応に多いわけですし、昨今あまり良いイメージが持たれにくい存在です。

 

その中で、この一件は単純に差別的発言として問われるよりほかにも改善しなければうけないことがあるように思えました。

 

いろいろ見ていると札幌は初雪だったみたいですね。

去年の写真見返したら、北大は紅葉の真っ盛り。

ちょっと懐かしく思ったり。

 

東京の紅葉、今年はちゃんと写真撮りたいな。

 

2016.10.22
こばやし

 

僕は目撃者になれるのか。

維新…①物事が改まって新しくなること。②明治維新のこと。
革命…①天命が改めること。②-1従来の支配階級が被支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること。②-2ある状態が急激に発展、変動すること。

 

ドラッカーというと「マネジメントの人!」というのが一般的な印象でしょう。
高校野球部のマネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んで、そこから得た知識を基に部活を変えていくという「もしドラ」の印象ですね。
たしか去年か一昨年に「もしドラ」を読みました(笑)

別に高校生でもないんですけど、大学図書館にあったのでふと手に取ったんですよね。
あのカバーの本を大学図書館で持ち運ぶのはなんともいえない感覚でした。
ラノベにカバーを付けて読む気持ちが良く分かりました。

 

そのドラッカー。経営をかじったら必ず名前を見かける経営学の巨人です。
僕はよく知らないのですが、たしかゼネラルモーターズの研究が有名だったはずです。

ただ経営や経済に触れなかった人に「もしドラ」で知られているように、一般的には”何をやった人か知らないけれども経営のすごい人!”という一種アイコン的な存在だと思います。

 

(×_×)(アイコンというとこんな感じ?)

 

今日、ドラッカーの「ポスト資本主義」を読み終わりました。

内容はいたって簡単なもので「知っていることをどう使いますか?<過去から未来>」です。

大学にいると、自分の学部で教えられる(探求できる)ことを学びます。
例えば経済学ぶだとどのようにして”値段が決まりますか?”という問いへの答えをいくつか授けられるのですが、
そうなると、究極には売られた量と値段の変化についてのデータがあれば、これからの予測や、大体これぐらい作れば最大限儲かるということが分かります。
この考え方があるだけで、何も知らない人とは大違いですよね。

 

この関係をもうすこし考えてみます。

 

経済学部で学んだことを何に対して使っているでしょうか。
回答はたくさんあると思うのですが、一つには生産技術・設備でしょう。
たとえば、何かを作る手段はあっても、経済学部で学んだことがなければ、どれだけ作っていいかもわかりません。ただ学んだ枠組みがあればどの程度作るのがベストなのかが推測できます。

 

例として、ちゃんと当てはまっているのか自信がないんですけど、
ドラッカーはこの構図を”知識を知識に対して用いる”としています。
これが現代社会の特徴です。

(簡単な例はコンピューターです笑)

 

これは理論として知識がまとめられていることが大きく影響されています。
大学で学ぶことはこれですね。

 

この本では、過去から現在にかけて「知識」がどのように社会の変化に寄与してきたかを記述しながら、将来どのように変わっていくのかを推測しています。

1990年前後に書かれた本ですが、内容は2016年の今、読んでも鮮明です。

この時代と言えばハンチントンの「文明の衝突」ですが、簡単に大きく社会がどう動いてきたかを考えるにはドラッカーの「ポスト資本主義」はおすすめです。

 

初めて農耕ができ、安定した生活ができるようになった弥生時代の農業革命。
法的”秩序”で天皇中心のクニをつくろうとした、律令時代のスタート、大化の改新
そこから鎌倉、室町、(戦国)、江戸と規模・地域を変えながら武家政権による時代。
そして、武家から天皇へと権力者が変わる、明治維新
江戸時代末期から明治にかけては”産業革命”の西洋の余波を受け、大きく国が動く時代。

このダイナミクスが歴史のストーリーとしての面白さですね。

 

ドラッカーの「ポスト資本主義」では”知識”という観点から、これまでの歴史的な転換点を記述しています。
これまでは権力者変わりましたね、生活変わりましたね、革命ですね!でおしまいでしたが、これで一つの視点でそれぞれの転換点を考えることができます。

 

 

さて、
僕らが生きている時代に革命は起こるのでしょうか。
"kaizen"(改善)という言葉が海外でも通用することに象徴されるように、日本史上では革命という言葉はあまり見かけません。(明治維新はthe Meiji restractureだったはず)

ただ西洋史を見ているとなにかにつけては”革命”がつきます。特にフランスでしょうけど。

 

ここ数年、直近ではVRやAI、数年前はスマートフォンとか、日常が変わる予感にありふれています。
今月のMUSICAでサカナクションの山口さんが世代間で違う感性について話していましたけど、世代で変わっていくことに分かる時代性と、
革命を起こしうる時代の要求とはいくら経験知識をもってしても分別がつかないものですが、
その努力をしない限りは、そこに立ち会えません。

せっかく生きているなら、転換点に立ち会いたいものです(笑)

 

僕は歴史を見る限り、革命やもしかしたら戦争に生きているうちに立ち会う可能性は高いと思います。
これだけの変化をしている中で歴史上では衝突がないのは奇跡的です。

 

ユートピア的な世界になるとは到底思えませんし。

とっっっっっても大きな話ですけど、ドッカーの「ポスト資本主義」はそんなことを考える足掛かりにはうってつけでした。

 

世界とか、これまで自分の見える範囲から超えることに拒絶しているところがあったので、ひとつ克服。

 

2016.10,18
こばやし