誇りと意地と情熱を。

北大生のブログ。東京出身です。日々の何気ないことから、様々に書き綴ります。

革新的

東京都で大規模な停電が発生してるみたいですね。

東京で停電なんてあまり聞かないから驚き。

幸い、自分のいるところは関係ないので対岸の火事なんだけどね。

 

いろいろ勉強してると、知らないことが山ほどあることに言葉を失う一方で、考えられる幅が広がるから、その分楽しい。

 

日本史をやっていて、「1630年代の日本における銀の産出量は世界の3分の1を占めていた」と知った時は、今の輸入に頼る日本とは打って変わって、資源立国としての日本は今の中東みたいに見られていたのかなとか思ったりした。

まあ極端な話。(笑)

 

ただ13世紀にマルコポーロが「黄金の国ジパング」と日本を称し、東方見聞録に記録した通り、昔から日本は鉱物資源溢れる国だと思われてたのだろうな。

資源がない国としての日本はほんと最近の話。

環太平洋造山帯に位置してるんだから、もっとうまくエネルギーを作れないのかね。

そこは科学の領域だから門外漢だけどさ。

 

そういえば昨日、“シェアラジオ”が始まりましたね。

ラジオになじみのない人が多いのかもしれないけれど、テレビは録画したりと過去のアーカイブを見ることが出来るんだけど、ラジオではこれまでその機能は発達してなかったんですよ。

 

だから、オールナイトニッポンはその時間にラジオの前にいないといけなかったし、radikoができる前はラジオの向きによっては電波が拾えなくてノイズがうるさかったりと、不便なメディアでした。

 

ただ一方で、この流れはかなり革新的なのですよ。

 

戦前ラジオといえば、20世紀の突出した発明品の一つに挙げられるぐらい人々の生活を変えたもので、新聞に加わる情報源として重宝されてました。

 

玉音放送”もラジオ放送だったしね。(そう思うと、この前の今上天皇の“お気持ちの表明”がインターネット上で行われたのは歴史の分岐点を象徴した出来事として政治史に刻まれる可能性はある)

 

ラジオは戦後テレビに追われ、メディアとしての立ち位置を変えざるをえなくなり、斜陽産業としてみられてきました。

 

その中でインターネットが発達して、普及すると、インターネットによる配信という画期的な事業を始めました。

 

これによって、安定的に配信できるようになったし、全国どこの局でも聞けるようになった。

 

テレビは明らかにマス向けのものだけど、ラジオはそうではない(スクールオブロックに象徴される)から、このインターネット配信を契機にあり方が変わってきたと思っています。

 

その中で、今回“シェアラジオ”が始めりました。

 

これ、つまりは、一週間の間に放送されたラジオ番組をインターネット経由で聞けるということなのですが、これによって、テレビにあまり出ていない人の話や、発売前の音楽とかを積極的に聞ける環境になったわけです。

 

自分の持っている音楽に飽きてきたならば、interFM897music mixで音楽を聴いて、音楽を探したり、作業用BGMにしたり。

 

 

テレビと違って、リアルタイムで見ること自体はあまり求められないものだからこそ、“リアルタイム”からラジオが自由になったことは、本当に革新的な出来事だと思います。

 

よくテレビ局と動画配信がくっついたことが話題に上るけど、それ以上に今回の出来事はメディアのあり方を変える“点”になる可能性は非常に高いかな。

 

最後におすすめの番組をあげます(笑)

 

Tokyo FM 「シンクロのシティ」

Tokyo FM Time Line

TBSラジオ 荻上チキのSession22

interFM897 music mix

 

2016.10.12

こばやし

「政治について思うこと」に思う。

北海道の標高が高いところでは雪が降っているらしい。

去年までは大学に行く途中の十八条門あたりから見える山々が白くなっているのを見て、冬が近いのを感じた。

 

ニュースを見て、札幌の真冬のツンと肌を刺す寒さが懐かしいなと思いつつ、今年は東京の雪の降らない街の中にいることが少し嬉しくなる。

 

今日の東京は昨日までの熱さとは打って変わって、例年通りの涼しさだ。

朝から降っていた雨も止み、いよいよ秋らしいころ合いになるのかな、と。

 

今こうして文章を書いていると、うちの前でサッカーをしている子供たちの音が聞こえてきた。

 

札幌では道や公園でサッカーや野球の練習をする子供を見なかったな。

喜茂別に行ったときに地元の野球チームを紹介された気がするけど彼らは一体どこで練習しているのだろうか。

冬の間は外で練習できないだろうから屋内の施設があるのかな。

帯広あたりの公共施設に屋内練習場があった気がしなくもない。

 

こうやって何かと忘れていくのはもったいないなあ(笑)

 

段々減る、段々知る未来。

 

そういえば、

僕の地元である練馬区は明々後日公示される東京十区の補選がある。

 

自民党からは小池都知事に近いとされる若狭氏、民進党からは元官僚の鈴木氏が出馬している。

この前、平和台駅らへんを歩いていたら鈴木候補が辻立ちをしていた。

あいにく、僕は投票ができないのだけれども、練馬、東京にとって良い候補が選ばれるといいなと思う。

 

こうかくと、衆議院議員は選出区のための奉仕をすべきなのか、全体への奉仕をすべきなのか、気になるけど、どっちがいいんだろうかね。

 

かつての民主党が与党として臨んだ最後の選挙で、全国を遊説していたあまりに自分の選挙区に入れず負けてしまった人がいたけれども、話の筋は違うけれども、難しい話ね。

 

そうそう、最近僕は、政治家が自分の意見を変えることに対して、「意見を変えるなんてけしからん!」ということはなくなった。

前はそう思っていた時期もあるのだけれど、今は別に構わないと思っている。

 

政治家一人一人を注視してみたら、訴えたいことはないのかと勘ぐってしまうけれども、もっと広いところで考えてみると、

政治家がやることは、簡潔にいえと国民がよりよい生活ができる社会を整備すること。

 

それならばいろんな人と会い、話し、聞き、その中で、望んでいることや傾向をつかみ、政策をつくった結果、これまでの自分の政策とは違うことになったのなら、それでいいのだと思う。

 

ある意味では政治家には個性はいらない、民意を体現すれば十分であろう。

そう思ったら今のどこかの政党は聞く力が足りてないかもね。

 

ただ、それだけだと国民の世論に流される国になってしまうから、そこはどうにかしないといけない。

野党の大切さはここらへんにある。

 

僕らは学校の中で多数決ばかりで何かと決めてしまうことになれてしまった。(僕は多数決で負けてしまった人達の意見を覚えてはいない)

だから、野党がただ批判ばかりしているのを知ると、「今の野党はたいしたことないな」と思う。

 

たしかに今の選挙の方法だと二つの大きな政党ができやすく、またゆえに政権交代が起こりやすいはずである。

それに政治家たるもの政策を実現してなんぼでしょという期待もあるのかもしれない。

 

だけど、そうなると多数決からこぼれてしまった人の意見は反映されなくなってしまう。

どちらも多数に寄るからね。

 

野党が批判するのは多数者の意見に対して、それに反対する少数者の意見を反映させたいからだ。

至極当たり前の話だけれども、これに気付いているかは肝要なのではないかと最近思うようになった。

 

より多くの人の意見が反映されたものにすること。

 

それは最初のものとは似て非なるものかもしれないけれども、それでいいのである。

 

市場の「見えざる手」によって需要と供給が調整されて、価格が決まっていくように。

議会の「見えざる手」によって、多数者の意見と少数者の意見が調整されて、しかるべき政策が立案されていくのである。

 

 

この前、吉田先生の「『野党』論」を読んだ。

といっても最近ではないけれど、それから消化して、自分の中でまとまりがついたから書いてみたけど、どうだろうか。(笑)

 

2016.10.08

こばやし

弾力性 10.88

東京一週間反省とこれからを。

 

東京に戻ってきて一週間がたった。

振り返るとあっという間だと感じるのは毎日が同じように繰り返されているだからかもしえない。微妙な変化はあるんだけど。

 

最初は余裕があったら、色々やろうかなと考えていたのだけれど、案外余裕がない。

 

八月に勉強を始めてから、毎日何を勉強して何にどれだけ時間をつかったのかを記録している。

そこからこれまでの平均値や諸々を計算し、理想的な時間配分から割り出したのが図の331日までの残り時間である。

 

<教養科目に関する残り時間>

 

<専門科目に関する時間配分>

 

いまから一日の大部分の時間を学習に割いたとしてもこれだけしか時間が取れない。

仮に効率よく進められたとしても、なかなか厳しいもの。

 

 

数値的に条件を把握できるのはやりやすい反面、ある程度こうなるのかなという妥当性が思考にべったりとついてしまいそうで怖い。

 

そんなこんな毎日勉強をしている。

 

この一週間の平均学習時間は11時間ぐらい。大学受験末期に一日15時間やっていたことを思えば、今の段階は準備運動以外の何物でもない気がする。

どうにか当時の自分に追いつこうとするのだけれど、なかなか追いつかない。(笑)

 

ただ、勉強始めてからの二か月で、だいぶ感覚が広がったなというのがあるので、今は頑張らないといけない。

理解はしてても、再現できなければね。

 

今日で、夏休みから3月31日までの21%が終わったらしい。

気が付けば5分の1が終わっていた。(笑)

 

一人で悶々と勉強をしていると、微妙な揺れも大きく感じてしまいそうだけれど、些細なことに心を動かす人になれると思えると思えば、良いのかもしれない。

 

余談だけれど、一か月で3キロ近く太ったかもしれない。

食事後に計ったから、素直には受け止めてないのだけれど、どうも良いペースで成長しているらしい。

自己最高の74キロが視野に入ってきた(現在72キロ)。

 

年齢に対する体重弾力性は(体重変化率/期間経過率)は

体重の変化 3/72=0.041・・・①

期間経過率 1/(20×12+9)=0.004・・・②

①②より 弾力性=10.88である。

 

この結果だとどうも自分の人生が1%(だいたい二か月強)経過したら、体重が10%増量(7キロ)する。

 

このペースで成長すれば、次札幌に帰った時には全く違う自分になれるかもしれない。

 

2016.10.06

こばやし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『落日燃ゆ』城山三郎

“落日燃ゆ”は戦前の総理大臣・広田弘毅の伝記小説である。

高校の日本史では、広田弘毅軍部大臣現役武官制や日独防共協定、「国策の基準」といった、戦前日本が第二次世界大戦へと加速していく中で内閣を組織した人物として教えられる。

 

特に軍部大臣現役武官制は、天皇に対して直接の責任を負っていた軍部大臣に対して、それまでは退役軍人など軍部の外を言っている人物や軍部の中心の影響をあまり受けない人物が軍部大臣を務めることを拒み、軍部の急進化を招いた施策として知られる。

 

そのため、僕は広田弘毅というと、A級戦犯として極東裁判で死刑判決を受けていることもあり、戦犯中の戦犯というイメージを持っている。

 

しかし“落日燃ゆ”で描かれる広田弘毅像はそれとは異なる。

 

“落日燃ゆ”での広田弘毅は、戦争をできる限り避けようと奮闘したものの、暴走する軍に巻き込まれながれ、落ちていく、悲劇的な人物。

極東裁判にて唯一、文官の中でA級戦犯として死刑判決を受けることになる広田弘毅の抗うことのできない悲運が詳細な時代考証に基づかれて描かれる。

 

“落日燃ゆ”での広田弘毅像が正しい、正しくないは別にして、この小説が膨大な資料に基づいて編まれた小説であることは間違いない。

その意味ではある意味で戦前の日本を学ぶのに最適な一冊かもしれない。

 

どうも戦前というと、排他的で戦争ばっかりやっているという印象がある。

第二次世界大戦で日本史は断絶しているのかという議論がある通り、たしかに1945年は感覚的にも大きな分け目になっていると言えよう。

それは戦争を経験していない僕らに特に顕著に見られるかもしれない。

 

例えばかつて学校習った「現代社会」と「日本史」。

理系の人は通らなかった道かもしれないが、「日本史」では主に旧石器時代から戦前までの歴史を扱った。

対して現代社会では日本について戦後から現代まで経済を中心にどのように社会が変遷し、何が問題となったのかを学んだ。

 

 

例えば憲法

多くの人は“日本国憲法”は“大日本帝国憲法”とは全くの別物と考えているのではないだろうか。

たしかにそうであるともいえるのだが、“日本国憲法”は“大日本帝国憲法”の条文に基づいて改正されたものである。

その意味では繋がっているといえる。

余談だが、平和主義や二院制などはアメリカが押し付けたものではなく、当時の総理大臣幣原喜重郎が提案したらしい。

 

僕がこの小説を読んでまず感じたのはこの“1945年で断絶していない”という感覚だ。

“落日燃ゆ”での広田弘毅は平和主義で、いかにして他国と対立せず、かつ国内のバランスもとりつつ舵取りをするのかを基軸として生きていた。

そこに見える“平和”に対する考え方は今の僕らと通ずるものがある。

ただ当時は統帥権の問題があり、政治は軍に対して介入することが難しかったのだが。

 

極端な話、第二次世界大戦前の日本は間違っていて、なんであーなってしまったのかねって思う人は一定数いると思うのだけれど、

あの時代にも今かつての日本を見るように、その時代を生きていた人がいたのだ。

 

壮大だけど日本観が少し変わったかもしれない。

面白かった。

 

去年の安保のことが頭をよぎる。

 

2016.10.05

こばやし

東京でカブトムシを見つけたとする。

自分の感覚とか意見を言葉にする機会がかなり少ないことが気がかりだから、こうしてできる限り文章を書いていこうと思う。

 

インターネットが浸透して、自分の思った事をすぐ発信できるようになっていたというものの、気が付くと、1000字とか2000字で文章を書くという機会がなくなっている。

 

まとまった文章を書く機会があったほうがいいのかと問われれば、一概にそうだとは言えない。

何事も簡単であることは素晴らしいのだけれども、だからこそ考えなくなることは困ったことなのであろうか。

 

もし、東京でカブトムシを見つけたとする。(変なたとえだけれど)

そしたら、今の僕らは写真を撮って、Twitterにあげるか、誰かにLINEするかするのではなかろうか。一週間後にはその出来事は忘れてしまう。

 

そういえば、僕らが小学校のころか幼稚園のころ「ぼくらの夏休み」というゲームがあった。

いまさら説明を要しないと思うのだけれど、夏休みにとある村に遊びに行くことになった小学生になって、自然で遊び、村の人に学びながら楽しい夏休みを過ごすというゲームだ。

 

(このゲーム、VRで楽しみたいな笑)

 

もし「ぼくらの夏休み」で描かれている世界にいるのだとしたら、道路にカブトムシを見つけたら間違いなく観察し、捕獲するだろう。

そして、友達の飼っている?カブトムシと相撲をさせるだろう。

 

想定されている年齢も違うし、極端な例ではあるけれども、カブトムシを見つけるという驚きは同じだけれども、そこから発現される行動はまったく異なる。

 

もしTwitterなどが無かったら、自分が感じた驚きを伝えるために、試行錯誤し、文章を組み立て、その上でどう話すかを考えるだろう。

そこで編まれた話には「○○で△△しました!」だけではなくて、自分のその時の驚きとか感覚とか事実以上にその人の空気感が出ているはず。

 

TwitterFacebookも何かを“そのまま”出す場として存在している。

そこにはその人自身の偏りや、意図はなかなかに表れにくい(それにそういうことを書いたのならばマイナスに受け取られる可能性がある)。

 

そんなんだから、ただ繋がっている人の投稿をみても、何も思わないし、フォローを外してしまうことになるのではないだろうか。

 

どうやったら、その人らしさを残しながら多くの人とつながっていれるのだろうか。

身内限定SNSがあるように、もう一つの流れは徐々に閉鎖的な方向に向いている。

 

フラットに自分の考えを発現する場があったらもっと面白い。

深い思考をもっと表に出ている場があったら、もっと面白い。

 

そしたら人の言うことや顔色に埋もれなくて済むんじゃないのかな。

これ言ったら誰かに否定されるとか、そういう心配はそもそもちゃんと話合うことがないゆえに発生している。

 

自分の周りが自分たちの意見に合う人ばかりになったら、少し警戒したほうがいい。

歴史が示している。

 

分断ほど悲しいことはないよな。

 

2016.10.04

こばやし

 

AmazonよりBOOKOFF。

昨日、なんとなく読書についてつらつら書いた。

そんな読書してないけれども、気が向いたので書いてみたけれど、どうも一般論の域を出ないものになってしまったと思う。

 

今日、ブックオフから本が届いた。

100円とかで学術書レベルの本が手に入るのはうれしいもので、Amazonよりも便利なのではないのかと思っている。

それに1500円以上買った場合は送料無料である。

ただ本が届くのに2日ぐらいかかってしまうことは欠点だろう。

この夏にいろんな専門の人と話すことが大きな刺激になったので、楽しみだ。

 

こうして安価で本が手に入るというのはなかなかにありがたいものだ。

それに中古書の利点は、前の所有者の足跡が残っているところだろう。

おかげで初学者にとっては良い標になっているので、とっかかりやすい。

 

フリマアプリが流行っていることに象徴されるのかもしれないが、今は大量生産大量消費から個別生産個別消費の時代への転換点なのかもね。

徐々に個別ニーズに合わせたものへと重心を移していく中で、大量生産ゆえに余ったものが出回っているのか。

 

もしかしたら将来的にはひとりひとりに合わせたものばかりが売られている世の中になって、中古なんて概念はなくなってしまうのか。

たしかにAさん向けに作られたものは、Aさん以外には適合しない(もしくは一部の人のみ)し、それらを中古販売業者が抱えたところで在庫にかかるコストが増えてしまう。

 

ひとりひとりの好みに合わせていくような世の中になって、今よりもずっと市場が細分化されていけば、極端な話、マーケティングなんて必要なくなるだろう。

それだけサンプル数が少なくなって、普遍性がなくなればという話だけれど。

 

ただそうは言っても、今僕は世界中で売られているであろうユニクロの服を着て、世界中で売られているVAIOでこの文章を書いている。

徐々に変わっていはいくだろうけど、そんな急には変わらないだろうなと常々思っている。

 

今、ドラッカーの「ポスト資本主義」を読んでいる。

この本は“社会における知識の扱われ方”という観点から社会の変動を分析している本(まだ序盤だから全体の要約ではない笑)なのだけれど、

これまで

「火を使うようになりました」「電気を使うようになりました」「人力以外の力を得るようになりました」「いろんなことを知れるようになりました」「情報伝達スピードが速くなりました」ぐらいにしか思っていなかった。

 

ただこの本はそれぞれを“知識”という軸で貫いて分析しており、実に面白い。

 

“知は力なり”か。

 

2016.10.03

こばやし

5分で考える読書の大切さ

新宿三丁目の駅を降りて、地上にあがり高島屋のほうに歩くと紀伊國屋がある。

いや、正確には“あった”だな。

 

高校時代はよく参考書や小説を探しに行ったもので、新宿という喧騒の中にあるながら、人が少なく(だから閉店したのだろうけど)、一種違う空気感が流れていた。

どうも新宿駅近くの紀伊國屋は好きではなく、このまえ本を見に行ったときもどうも落ちつかなかった。

 

思えば高校二年の時に本を読むことを始めてみてから、読む本も感じることも変わってきたのではないかと思う。

 

誰しも、高校時代は学校側から本を薦められただろうけれど、そのリストを今見たらどう思うのだろうか。

 

曖昧な記憶だけれども、“小林多喜二”や“芥川龍之介”など名だたる作家の本がリストに並んでいた。

残念ながら小林秀雄はなかったと思う。(もし読んでいたらセンター試験はもう少し楽に解けたはず)

 

ただどう考えても、当時の自分がその本を読んだところで何も得ることはなかったのだろうなと思う。

 

今、継続しているか知らないけれど、僕等の小学校時代、中学校時代は読書週間や朝読書が推奨され、読書は先生から課せられるものだった。

もともと外で遊んでいるような子供だった僕にはどうもなじめず、苦痛だったことを覚えている。

 

今となっては、高校時代に入院したことで読書の楽しさを知ることになってよかったと思っている。

 

なんで読書することは良いことなのだろうか。

なんで読書している人はなんとなくそういう人らしい雰囲気を発するのか。

 

それを考えずして、ただ“読書=良いこと”という雰囲気にのまれて読書を(苦痛ながらに)するのは、いささか辛い。

 

インターネットの記事を見ていても、朝早く起きるのと同じぐらい、著名人は読書を薦めているように思える。

 

翻って周りを見回してみても、割と読書が習慣づいている、ないしは意識している人が多い気がする。

それは“類は友を呼ぶ”という言葉の通り、少なからず僕が読書をすることについて意識を振っているからかもしれないが。

 

去年の大河ドラマ「花燃ゆ」(最初のほうで見るのを辞めてしまったけれど)で伊勢谷友介さん演じる吉田松陰が“読書は過去の偉人との対話である”と言っていた。

 

確かに言い得て妙だ。

僕らが過去の偉人たち、それが福沢諭吉だとしてもクラーク博士だとしてもマルクスだとしても、何らかの形で残っている限り、彼らの思考の断片に触れることができる。

今はインターネットを介して簡単に調べることはできるようになったが、彼ら/彼女たちが自分自身で選んだ言葉に触れるのには本を通してしかできないことだ。

 

 

大河ドラマはじめ、歴史もののドラマを見ると、偉人たちは必死になって書物を探し、それらを読み込んでいる。

今の大河ドラマ真田丸でも堺雅人さん演じる真田幸村書物を探していたり、草刈正雄さん演じる真田正幸は兵法を記していたりする。

 

どうも“読書=良いこと”ということは過去より普遍的に認識されていたことらしい。

 

そんなことを考えながら本屋に行ってみる。

最近では蔦屋書店を筆頭にオシャレな本屋が増えたことに象徴されるように、本の見せ方に気を使っていることが感じられる。

 

まず出会うのが新刊の本たち。

主にハウツー本であったり、ビジネス書だろう。

“〇分でできる▽△”や“簡単にわかる○○”など、最近は限りある時間の中で効率よく何かを教えてくれる本が流行っているらしい。

 

これらが店頭の目に付くところに並んでいるということは、これらが売れていることの証左だ。

極端な妄想だろうけれども、読書をしようと思ってまず手に取る可能性があるのがこれらだと思うと何か違和感を感じえない。

 

昔の人達(といっても大河ドラマで描かれている人達だけれど)は、これからの社会なり人生を選択していくために本を読んでいた。

今と違って、海外の情報は入ってこない。

しかし今は検索一つで大抵のことは分かってしまう。それに大学の講義もインターネットで見れるようになってきている。(一部だけれど論文も読むことが出来る)

 

ただ昔はすべての速度が遅かったために余白の時間が多かった。

今はそこをどう獲得するかでスマホ関連の企業やいろんな人が試行錯誤をしている。つまり余白はなくなってきている。

 

この余白の時間を昔の人達は“考えること”に使っていたのではないのかと思う。

電車に揺られている今の人達を見てみると、スマホをいじっている人や読書をしていても“ただ読むため”に本を読んでいる人、または受験生か何かでただ暗記しようとしている人を見かけるのではないか。

 

大切なことは“考えること”らしい。

読んだ本の中にある一文から、何を拾えるか。

みんなと一緒に大学に入って、みんなと一緒に就活して、就職してというレールに乗っかているけれども、昔と違ってひとりひとりにとって何が合うのかを選べる時代になることを期待するならば、“考えること”は必要不可欠なことなんだろう。

 

一方で考えることが大事ならばその道は本だけではないだろうという見方もできる。

だから、そこは積極的に選択するという問題なんだと思う。

 

ただ本を読むことで、どの時代の人とも触れることが出来て、何かを相対的に眺めることが出来るようになれば、妄信せずにいられるようになるのだろう。

 

そう思うと、僕はこうやって流行にのってBlogを書いていると思うとまだまだだなあと思う。

 

あれ、こんなことを書くつもりではなかったのにな。(笑) 

 

2016.10.02

こばやし