『落日燃ゆ』城山三郎
“落日燃ゆ”は戦前の総理大臣・広田弘毅の伝記小説である。
高校の日本史では、広田弘毅は軍部大臣現役武官制や日独防共協定、「国策の基準」といった、戦前日本が第二次世界大戦へと加速していく中で内閣を組織した人物として教えられる。
特に軍部大臣現役武官制は、天皇に対して直接の責任を負っていた軍部大臣に対して、それまでは退役軍人など軍部の外を言っている人物や軍部の中心の影響をあまり受けない人物が軍部大臣を務めることを拒み、軍部の急進化を招いた施策として知られる。
そのため、僕は広田弘毅というと、A級戦犯として極東裁判で死刑判決を受けていることもあり、戦犯中の戦犯というイメージを持っている。
しかし“落日燃ゆ”で描かれる広田弘毅像はそれとは異なる。
“落日燃ゆ”での広田弘毅は、戦争をできる限り避けようと奮闘したものの、暴走する軍に巻き込まれながれ、落ちていく、悲劇的な人物。
極東裁判にて唯一、文官の中でA級戦犯として死刑判決を受けることになる広田弘毅の抗うことのできない悲運が詳細な時代考証に基づかれて描かれる。
“落日燃ゆ”での広田弘毅像が正しい、正しくないは別にして、この小説が膨大な資料に基づいて編まれた小説であることは間違いない。
その意味ではある意味で戦前の日本を学ぶのに最適な一冊かもしれない。
どうも戦前というと、排他的で戦争ばっかりやっているという印象がある。
第二次世界大戦で日本史は断絶しているのかという議論がある通り、たしかに1945年は感覚的にも大きな分け目になっていると言えよう。
それは戦争を経験していない僕らに特に顕著に見られるかもしれない。
例えばかつて学校習った「現代社会」と「日本史」。
理系の人は通らなかった道かもしれないが、「日本史」では主に旧石器時代から戦前までの歴史を扱った。
対して現代社会では日本について戦後から現代まで経済を中心にどのように社会が変遷し、何が問題となったのかを学んだ。
例えば憲法。
多くの人は“日本国憲法”は“大日本帝国憲法”とは全くの別物と考えているのではないだろうか。
たしかにそうであるともいえるのだが、“日本国憲法”は“大日本帝国憲法”の条文に基づいて改正されたものである。
その意味では繋がっているといえる。
余談だが、平和主義や二院制などはアメリカが押し付けたものではなく、当時の総理大臣幣原喜重郎が提案したらしい。
僕がこの小説を読んでまず感じたのはこの“1945年で断絶していない”という感覚だ。
“落日燃ゆ”での広田弘毅は平和主義で、いかにして他国と対立せず、かつ国内のバランスもとりつつ舵取りをするのかを基軸として生きていた。
そこに見える“平和”に対する考え方は今の僕らと通ずるものがある。
ただ当時は統帥権の問題があり、政治は軍に対して介入することが難しかったのだが。
極端な話、第二次世界大戦前の日本は間違っていて、なんであーなってしまったのかねって思う人は一定数いると思うのだけれど、
あの時代にも今かつての日本を見るように、その時代を生きていた人がいたのだ。
壮大だけど日本観が少し変わったかもしれない。
面白かった。
去年の安保のことが頭をよぎる。
2016.10.05
こばやし
東京でカブトムシを見つけたとする。
自分の感覚とか意見を言葉にする機会がかなり少ないことが気がかりだから、こうしてできる限り文章を書いていこうと思う。
インターネットが浸透して、自分の思った事をすぐ発信できるようになっていたというものの、気が付くと、1000字とか2000字で文章を書くという機会がなくなっている。
まとまった文章を書く機会があったほうがいいのかと問われれば、一概にそうだとは言えない。
何事も簡単であることは素晴らしいのだけれども、だからこそ考えなくなることは困ったことなのであろうか。
もし、東京でカブトムシを見つけたとする。(変なたとえだけれど)
そしたら、今の僕らは写真を撮って、Twitterにあげるか、誰かにLINEするかするのではなかろうか。一週間後にはその出来事は忘れてしまう。
そういえば、僕らが小学校のころか幼稚園のころ「ぼくらの夏休み」というゲームがあった。
いまさら説明を要しないと思うのだけれど、夏休みにとある村に遊びに行くことになった小学生になって、自然で遊び、村の人に学びながら楽しい夏休みを過ごすというゲームだ。
(このゲーム、VRで楽しみたいな笑)
もし「ぼくらの夏休み」で描かれている世界にいるのだとしたら、道路にカブトムシを見つけたら間違いなく観察し、捕獲するだろう。
そして、友達の飼っている?カブトムシと相撲をさせるだろう。
想定されている年齢も違うし、極端な例ではあるけれども、カブトムシを見つけるという驚きは同じだけれども、そこから発現される行動はまったく異なる。
もしTwitterなどが無かったら、自分が感じた驚きを伝えるために、試行錯誤し、文章を組み立て、その上でどう話すかを考えるだろう。
そこで編まれた話には「○○で△△しました!」だけではなくて、自分のその時の驚きとか感覚とか事実以上にその人の空気感が出ているはず。
TwitterもFacebookも何かを“そのまま”出す場として存在している。
そこにはその人自身の偏りや、意図はなかなかに表れにくい(それにそういうことを書いたのならばマイナスに受け取られる可能性がある)。
そんなんだから、ただ繋がっている人の投稿をみても、何も思わないし、フォローを外してしまうことになるのではないだろうか。
どうやったら、その人らしさを残しながら多くの人とつながっていれるのだろうか。
身内限定SNSがあるように、もう一つの流れは徐々に閉鎖的な方向に向いている。
フラットに自分の考えを発現する場があったらもっと面白い。
深い思考をもっと表に出ている場があったら、もっと面白い。
そしたら人の言うことや顔色に埋もれなくて済むんじゃないのかな。
これ言ったら誰かに否定されるとか、そういう心配はそもそもちゃんと話合うことがないゆえに発生している。
自分の周りが自分たちの意見に合う人ばかりになったら、少し警戒したほうがいい。
歴史が示している。
分断ほど悲しいことはないよな。
2016.10.04
こばやし
AmazonよりBOOKOFF。
昨日、なんとなく読書についてつらつら書いた。
そんな読書してないけれども、気が向いたので書いてみたけれど、どうも一般論の域を出ないものになってしまったと思う。
今日、ブックオフから本が届いた。
100円とかで学術書レベルの本が手に入るのはうれしいもので、Amazonよりも便利なのではないのかと思っている。
それに1500円以上買った場合は送料無料である。
ただ本が届くのに2日ぐらいかかってしまうことは欠点だろう。
この夏にいろんな専門の人と話すことが大きな刺激になったので、楽しみだ。
こうして安価で本が手に入るというのはなかなかにありがたいものだ。
それに中古書の利点は、前の所有者の足跡が残っているところだろう。
おかげで初学者にとっては良い標になっているので、とっかかりやすい。
フリマアプリが流行っていることに象徴されるのかもしれないが、今は大量生産大量消費から個別生産個別消費の時代への転換点なのかもね。
徐々に個別ニーズに合わせたものへと重心を移していく中で、大量生産ゆえに余ったものが出回っているのか。
もしかしたら将来的にはひとりひとりに合わせたものばかりが売られている世の中になって、中古なんて概念はなくなってしまうのか。
たしかにAさん向けに作られたものは、Aさん以外には適合しない(もしくは一部の人のみ)し、それらを中古販売業者が抱えたところで在庫にかかるコストが増えてしまう。
ひとりひとりの好みに合わせていくような世の中になって、今よりもずっと市場が細分化されていけば、極端な話、マーケティングなんて必要なくなるだろう。
それだけサンプル数が少なくなって、普遍性がなくなればという話だけれど。
ただそうは言っても、今僕は世界中で売られているであろうユニクロの服を着て、世界中で売られているVAIOでこの文章を書いている。
徐々に変わっていはいくだろうけど、そんな急には変わらないだろうなと常々思っている。
今、ドラッカーの「ポスト資本主義」を読んでいる。
この本は“社会における知識の扱われ方”という観点から社会の変動を分析している本(まだ序盤だから全体の要約ではない笑)なのだけれど、
これまで
「火を使うようになりました」「電気を使うようになりました」「人力以外の力を得るようになりました」「いろんなことを知れるようになりました」「情報伝達スピードが速くなりました」ぐらいにしか思っていなかった。
ただこの本はそれぞれを“知識”という軸で貫いて分析しており、実に面白い。
“知は力なり”か。
2016.10.03
こばやし
5分で考える読書の大切さ
新宿三丁目の駅を降りて、地上にあがり高島屋のほうに歩くと紀伊國屋がある。
いや、正確には“あった”だな。
高校時代はよく参考書や小説を探しに行ったもので、新宿という喧騒の中にあるながら、人が少なく(だから閉店したのだろうけど)、一種違う空気感が流れていた。
どうも新宿駅近くの紀伊國屋は好きではなく、このまえ本を見に行ったときもどうも落ちつかなかった。
思えば高校二年の時に本を読むことを始めてみてから、読む本も感じることも変わってきたのではないかと思う。
誰しも、高校時代は学校側から本を薦められただろうけれど、そのリストを今見たらどう思うのだろうか。
曖昧な記憶だけれども、“小林多喜二”や“芥川龍之介”など名だたる作家の本がリストに並んでいた。
残念ながら小林秀雄はなかったと思う。(もし読んでいたらセンター試験はもう少し楽に解けたはず)
ただどう考えても、当時の自分がその本を読んだところで何も得ることはなかったのだろうなと思う。
今、継続しているか知らないけれど、僕等の小学校時代、中学校時代は読書週間や朝読書が推奨され、読書は先生から課せられるものだった。
もともと外で遊んでいるような子供だった僕にはどうもなじめず、苦痛だったことを覚えている。
今となっては、高校時代に入院したことで読書の楽しさを知ることになってよかったと思っている。
なんで読書することは良いことなのだろうか。
なんで読書している人はなんとなくそういう人らしい雰囲気を発するのか。
それを考えずして、ただ“読書=良いこと”という雰囲気にのまれて読書を(苦痛ながらに)するのは、いささか辛い。
インターネットの記事を見ていても、朝早く起きるのと同じぐらい、著名人は読書を薦めているように思える。
翻って周りを見回してみても、割と読書が習慣づいている、ないしは意識している人が多い気がする。
それは“類は友を呼ぶ”という言葉の通り、少なからず僕が読書をすることについて意識を振っているからかもしれないが。
去年の大河ドラマ「花燃ゆ」(最初のほうで見るのを辞めてしまったけれど)で伊勢谷友介さん演じる吉田松陰が“読書は過去の偉人との対話である”と言っていた。
確かに言い得て妙だ。
僕らが過去の偉人たち、それが福沢諭吉だとしてもクラーク博士だとしてもマルクスだとしても、何らかの形で残っている限り、彼らの思考の断片に触れることができる。
今はインターネットを介して簡単に調べることはできるようになったが、彼ら/彼女たちが自分自身で選んだ言葉に触れるのには本を通してしかできないことだ。
大河ドラマはじめ、歴史もののドラマを見ると、偉人たちは必死になって書物を探し、それらを読み込んでいる。
今の大河ドラマ真田丸でも堺雅人さん演じる真田幸村は書物を探していたり、草刈正雄さん演じる真田正幸は兵法を記していたりする。
どうも“読書=良いこと”ということは過去より普遍的に認識されていたことらしい。
そんなことを考えながら本屋に行ってみる。
最近では蔦屋書店を筆頭にオシャレな本屋が増えたことに象徴されるように、本の見せ方に気を使っていることが感じられる。
まず出会うのが新刊の本たち。
主にハウツー本であったり、ビジネス書だろう。
“〇分でできる▽△”や“簡単にわかる○○”など、最近は限りある時間の中で効率よく何かを教えてくれる本が流行っているらしい。
これらが店頭の目に付くところに並んでいるということは、これらが売れていることの証左だ。
極端な妄想だろうけれども、読書をしようと思ってまず手に取る可能性があるのがこれらだと思うと何か違和感を感じえない。
昔の人達(といっても大河ドラマで描かれている人達だけれど)は、これからの社会なり人生を選択していくために本を読んでいた。
今と違って、海外の情報は入ってこない。
しかし今は検索一つで大抵のことは分かってしまう。それに大学の講義もインターネットで見れるようになってきている。(一部だけれど論文も読むことが出来る)
ただ昔はすべての速度が遅かったために余白の時間が多かった。
今はそこをどう獲得するかでスマホ関連の企業やいろんな人が試行錯誤をしている。つまり余白はなくなってきている。
この余白の時間を昔の人達は“考えること”に使っていたのではないのかと思う。
電車に揺られている今の人達を見てみると、スマホをいじっている人や読書をしていても“ただ読むため”に本を読んでいる人、または受験生か何かでただ暗記しようとしている人を見かけるのではないか。
大切なことは“考えること”らしい。
読んだ本の中にある一文から、何を拾えるか。
みんなと一緒に大学に入って、みんなと一緒に就活して、就職してというレールに乗っかているけれども、昔と違ってひとりひとりにとって何が合うのかを選べる時代になることを期待するならば、“考えること”は必要不可欠なことなんだろう。
一方で考えることが大事ならばその道は本だけではないだろうという見方もできる。
だから、そこは積極的に選択するという問題なんだと思う。
ただ本を読むことで、どの時代の人とも触れることが出来て、何かを相対的に眺めることが出来るようになれば、妄信せずにいられるようになるのだろう。
そう思うと、僕はこうやって流行にのってBlogを書いていると思うとまだまだだなあと思う。
あれ、こんなことを書くつもりではなかったのにな。(笑)
2016.10.02
こばやし
up-down-up
東京に戻ってきて二日が過ぎた。
後期から休学する(大学からの通知が来ないので心配なのだが)ので、しばらく東京にいるつもりだ。
先月もだいぶ東京にいたので、なれていたつもりだが、改めてしばらくいると思うと、どうも少しばかり苦しく感じる。
人生90年でみたら半年や一年なんてどうってことないはずなのだけれど、この期間に一つ何がしかのステップを踏もうと力んでいたので、いよいよだと思うと、、ね。
今勉強をしていることは、この大学生活人以下にしか勉強してこなかったので、その分が今降りかかってきたのだろうな。
過去の記録を見返してみると、かつて大学受験直前の冬は一日15時間勉強していたらしい。
なんとなく散らばっていた話が最後の章でうまく帳尻を合わせるように、教育制度の中にいる者として、その本来の機能を果たそうとしているのかもしれない。
去年、試行錯誤した結果、やはり勉強する必要があるということに落ち着いたのだけれど、その回答は誤りでないと信じているにせよ、やはり周りを見てみると、アクティブで楽しそうで、どこか羨ましいことは否めない。
ただこの一か月強、久方ぶりに勉強をしていて、自分の中の感性が変わってきた、もしくは鋭敏になってきた感覚がある。
一つのことから考えることが増えたのかもしれない。
もしくは興味の幅が広がったのかもしれない。
武田信玄亡き後の武田家を継いだ武田勝頼は武田家由来のしがらみの多さがなかったなら、もしかしたら天下を取っていた可能性があるらしい。
札幌から離れる選択は間違っていないと信じるしかない。
多くの同期が来年就職を迎える。
いま、この宙に浮いた時間をどう使っているんだろうか。
一昨日、ゼミで後輩から「もっと楽して生きればいいじゃないですか」と言われた。
よく言ってもらえることだから、その都度考えるのだけれど、ふと“二―バーの祈り”を思い出した。
神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ
(二―バーの祈り/翻訳者:大木英夫)
そういえば、ちょうど一週間前、資料整理をしに置戸町に行った。
日本史(近代史)、社会教育、経済史を専門とする3つのゼミの合同だったのだけれど、院生や博士の方たちも多く、よい刺激になった。
ひとつ、自分の専門を深める上で良い標を見つけられた。
飲み会で日本史について延々と語るのは今の僕には厳しい。(笑)
“ぽかん”と空いた、長くも短くもない時間をどう使おうかな。
ちょっとだけわくわく、かなり不安だけれど、だからこそ何かやれる気がする。
iPhoneのようにアップデートしたはいいけど扱いにくい、ということにならなければいいが。
2016.10.01
こばやし
「怒」り
札幌に戻ってきた。
家を出てから三時間少々というところか。
東京を出て四年目ということもある、成田空港まで電車で行って、飛行機のって、また電車というのは、ちょっと疲れてきた。
いつからこんな疲れるようになったんだろうか。
最初の頃は、飛行機と言うだけでわくわくしていたような記憶がある。
まだ十分若いとは思うけれども、昔に比べて、新しいことが少なくなってきたなと感じる。
だから物事に驚きもあまりないのかもしれない。
淡々と。
淡々と。
淡々と毎日が過ぎていく。
大人になっていくというのはある意味で物事に対して無感情になることなんだろうなと最近思う。
冷静にそれを眺めなれること。
“落ち着いた”という言葉は客観的に見たら良い意味だけれども、果たして自分自身それでいいのかと問い返してみるといささか困る。
最近、激しく喜怒哀楽を感じたことがあっただろうか。(いや、その意味で僕は相対的にはある方だろうな)
ただ間違いなく10年前の自分より物事に鈍感になっている気がするし、昔の純な感覚は失いつつあることを自覚はしている。
昨日、帰ってきた足で、友人と飯を食ってから映画を見た。
「怒り」。
監督は「フラガール」や「悪人」で有名な李監督。
俳優陣は渡辺謙を筆頭に妻夫木聡、綾野剛、宮崎あおい、広瀬すず。
八王子市で殺人事件が起こる。犯人は逃走。犯人はどこへ行ったのか。
そこからストーリーは都会、離島、漁村を舞台へ。三つの舞台にそれぞれいる出所不明の男たち。かれらは殺人犯なのか。それとも。という話。
切り口は見る人によって何通りにも分かれるだろうという示唆に富んだ作品だった。
だれもが抱える理不尽、憤り。つまり、それらは「怒り」へとつながる。
ただだれしもが幸せでありたいと願って生きている。
理不尽な中に生きているが故の人への疑心暗鬼。
そのジレンマが感情的に描かれていた。
個人的には今年NO1の作品だと思う。
そして、あなたの憤りはどこへ向かっていますか?という自問へとつながる。
何気ない憤りが副作用の様に無意識に起こす変化に僕は恐らく気づいていないだろうな。
それゆえに楽しめるはずのものを楽しめず、得れるものを失っていると畏怖を覚えた。
久しぶりに映画で泣いた。
感情を抑え方の初歩を覚えてしまったあまりに何かを見逃すことはしたくない。
大人になんてなりたくない。
2016.09.22
こばやし
北海道 9日間
昨日の風雨とは打って変わって、穏やかな午前中。
どうやら台風は通り過ぎたらしい。
昨日、俳優の堺雅人さん著「文」読み終えた。
TVnaviという雑誌(僕は読んだことはない)で数年前に連載していたものを一冊の本にしたものである。
どんな本聞かれると難しいのだけれど、日々の日常の事柄からこんなことを考え、こう思うという思索の本と思っている。
真田丸、半沢直樹、リーガル・ハイ、ゴールデンスランバー等、これまでいろんな作品を楽しませてもらってる1ファンとして、このことからこんなことを考えるのか、とこれまで以上に堺さんが出演されている作品が楽しめそうで、それがなにより嬉しい限り。
本を読み終えてから、勉強課題をやり終え、映画を見ることにした。
せっかくなので堺さんが出演されている映画「クライマーズ・ハイ」。
日航機墜落事件を追った地方新聞記者の話で、主演は堤真一さん、原作もまた有名な作品である。
映画では堺さんは政治部のキャップの役をやられていて、日航機墜落事件の取材をされている役をされていた。
たしか時代設定が1985年であることもあり、高度成長期の日本の雰囲気を感じる映画でもあった。
さてさて、今日この天気の調子なら夕方には札幌に帰れるのではないかと思っている。
東京でやるべきことは終え、スケジュールの整理をしてから家を出ようかというところだ。
公務員試験の勉強を柱に据えてから、エクセルで管理しようと思い、エクセルを使っている。
おかげで苦手というよりなにも分からなかったエクセルをある程度使えるようになった。
エクセル非常に便利、どうやって計算しているか気になって仕方ない。
ただあいにくそこらへんの知識はないのでさっぱりわからない。
これから仕組みが分からないでただ使用法だけわかるというものがさらに増えるんだろうし。
エクセルで様々に立式し、計算していると、3月31日までおよそ2000時間から1500時間程度、学習時間が取れるということが分かった。
あれこれ資料を見ていると公務員試験にかける勉強時間は平均して1500時間から2000時間ぐらいだと言われている。
そう考えたら、半年時間取ってもギリギリなところ。
結構余裕はあると思っていた矢先であったので、すこし驚き。
ただこの夏休み、久しぶりに勉強して(といっても大学受験時に毎日12時間以上やってたかと思うとたいしたことはない)、すこしばかり思考の幅が広がったことを感じる。
これまでは小説を読んでも、それでおしまいだったけれど、今では多少はメッセージを受け取ることはできる気がしている。
来年の今頃、どこの進路に進もうとしているかは分からないけれども、“公共”に関わることが出来たら、今やっていることは大きな+になるはず。
映画で描かれいるような新聞記者にはなれそうにないけれど、すこしばかりは自分の信じる正義を抱えて働きたいなあと思う。
今から札幌に戻るわけだけれども、ゼミ合宿があったりして札幌には数日しかいない。
不思議と割り切れているのか、札幌には未練がましいことはないので、ふらりふらり勉強しながら過ごせれば程度にしか考えてはいない。
二郎に行きたかったり、Pole’s caffeに行きたかったりすることは否めないけれども。
あ、久しぶりに北海道博物館でコーヒー飲みながら本を読みたいな。
あと3月31日まであと192日。
たった192日しかないからこそ、大学受験時以上に勉強しようと思う。
あの時が一番頭良かったというのは悔しいからね。
2016.09.21
こばやし