「政治について思うこと」に思う。
北海道の標高が高いところでは雪が降っているらしい。
去年までは大学に行く途中の十八条門あたりから見える山々が白くなっているのを見て、冬が近いのを感じた。
ニュースを見て、札幌の真冬のツンと肌を刺す寒さが懐かしいなと思いつつ、今年は東京の雪の降らない街の中にいることが少し嬉しくなる。
今日の東京は昨日までの熱さとは打って変わって、例年通りの涼しさだ。
朝から降っていた雨も止み、いよいよ秋らしいころ合いになるのかな、と。
今こうして文章を書いていると、うちの前でサッカーをしている子供たちの音が聞こえてきた。
札幌では道や公園でサッカーや野球の練習をする子供を見なかったな。
喜茂別に行ったときに地元の野球チームを紹介された気がするけど彼らは一体どこで練習しているのだろうか。
冬の間は外で練習できないだろうから屋内の施設があるのかな。
帯広あたりの公共施設に屋内練習場があった気がしなくもない。
こうやって何かと忘れていくのはもったいないなあ(笑)
段々減る、段々知る未来。
そういえば、
僕の地元である練馬区は明々後日公示される東京十区の補選がある。
自民党からは小池都知事に近いとされる若狭氏、民進党からは元官僚の鈴木氏が出馬している。
この前、平和台駅らへんを歩いていたら鈴木候補が辻立ちをしていた。
あいにく、僕は投票ができないのだけれども、練馬、東京にとって良い候補が選ばれるといいなと思う。
こうかくと、衆議院議員は選出区のための奉仕をすべきなのか、全体への奉仕をすべきなのか、気になるけど、どっちがいいんだろうかね。
かつての民主党が与党として臨んだ最後の選挙で、全国を遊説していたあまりに自分の選挙区に入れず負けてしまった人がいたけれども、話の筋は違うけれども、難しい話ね。
そうそう、最近僕は、政治家が自分の意見を変えることに対して、「意見を変えるなんてけしからん!」ということはなくなった。
前はそう思っていた時期もあるのだけれど、今は別に構わないと思っている。
政治家一人一人を注視してみたら、訴えたいことはないのかと勘ぐってしまうけれども、もっと広いところで考えてみると、
政治家がやることは、簡潔にいえと国民がよりよい生活ができる社会を整備すること。
それならばいろんな人と会い、話し、聞き、その中で、望んでいることや傾向をつかみ、政策をつくった結果、これまでの自分の政策とは違うことになったのなら、それでいいのだと思う。
ある意味では政治家には個性はいらない、民意を体現すれば十分であろう。
そう思ったら今のどこかの政党は聞く力が足りてないかもね。
ただ、それだけだと国民の世論に流される国になってしまうから、そこはどうにかしないといけない。
野党の大切さはここらへんにある。
僕らは学校の中で多数決ばかりで何かと決めてしまうことになれてしまった。(僕は多数決で負けてしまった人達の意見を覚えてはいない)
だから、野党がただ批判ばかりしているのを知ると、「今の野党はたいしたことないな」と思う。
たしかに今の選挙の方法だと二つの大きな政党ができやすく、またゆえに政権交代が起こりやすいはずである。
それに政治家たるもの政策を実現してなんぼでしょという期待もあるのかもしれない。
だけど、そうなると多数決からこぼれてしまった人の意見は反映されなくなってしまう。
どちらも多数に寄るからね。
野党が批判するのは多数者の意見に対して、それに反対する少数者の意見を反映させたいからだ。
至極当たり前の話だけれども、これに気付いているかは肝要なのではないかと最近思うようになった。
より多くの人の意見が反映されたものにすること。
それは最初のものとは似て非なるものかもしれないけれども、それでいいのである。
市場の「見えざる手」によって需要と供給が調整されて、価格が決まっていくように。
議会の「見えざる手」によって、多数者の意見と少数者の意見が調整されて、しかるべき政策が立案されていくのである。
この前、吉田先生の「『野党』論」を読んだ。
といっても最近ではないけれど、それから消化して、自分の中でまとまりがついたから書いてみたけど、どうだろうか。(笑)
2016.10.08
こばやし