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誇りと意地と情熱を。

北大生のブログ。東京出身です。日々の何気ないことから、様々に書き綴ります。

5分で考える読書の大切さ

新宿三丁目の駅を降りて、地上にあがり高島屋のほうに歩くと紀伊國屋がある。

いや、正確には“あった”だな。

 

高校時代はよく参考書や小説を探しに行ったもので、新宿という喧騒の中にあるながら、人が少なく(だから閉店したのだろうけど)、一種違う空気感が流れていた。

どうも新宿駅近くの紀伊國屋は好きではなく、このまえ本を見に行ったときもどうも落ちつかなかった。

 

思えば高校二年の時に本を読むことを始めてみてから、読む本も感じることも変わってきたのではないかと思う。

 

誰しも、高校時代は学校側から本を薦められただろうけれど、そのリストを今見たらどう思うのだろうか。

 

曖昧な記憶だけれども、“小林多喜二”や“芥川龍之介”など名だたる作家の本がリストに並んでいた。

残念ながら小林秀雄はなかったと思う。(もし読んでいたらセンター試験はもう少し楽に解けたはず)

 

ただどう考えても、当時の自分がその本を読んだところで何も得ることはなかったのだろうなと思う。

 

今、継続しているか知らないけれど、僕等の小学校時代、中学校時代は読書週間や朝読書が推奨され、読書は先生から課せられるものだった。

もともと外で遊んでいるような子供だった僕にはどうもなじめず、苦痛だったことを覚えている。

 

今となっては、高校時代に入院したことで読書の楽しさを知ることになってよかったと思っている。

 

なんで読書することは良いことなのだろうか。

なんで読書している人はなんとなくそういう人らしい雰囲気を発するのか。

 

それを考えずして、ただ“読書=良いこと”という雰囲気にのまれて読書を(苦痛ながらに)するのは、いささか辛い。

 

インターネットの記事を見ていても、朝早く起きるのと同じぐらい、著名人は読書を薦めているように思える。

 

翻って周りを見回してみても、割と読書が習慣づいている、ないしは意識している人が多い気がする。

それは“類は友を呼ぶ”という言葉の通り、少なからず僕が読書をすることについて意識を振っているからかもしれないが。

 

去年の大河ドラマ「花燃ゆ」(最初のほうで見るのを辞めてしまったけれど)で伊勢谷友介さん演じる吉田松陰が“読書は過去の偉人との対話である”と言っていた。

 

確かに言い得て妙だ。

僕らが過去の偉人たち、それが福沢諭吉だとしてもクラーク博士だとしてもマルクスだとしても、何らかの形で残っている限り、彼らの思考の断片に触れることができる。

今はインターネットを介して簡単に調べることはできるようになったが、彼ら/彼女たちが自分自身で選んだ言葉に触れるのには本を通してしかできないことだ。

 

 

大河ドラマはじめ、歴史もののドラマを見ると、偉人たちは必死になって書物を探し、それらを読み込んでいる。

今の大河ドラマ真田丸でも堺雅人さん演じる真田幸村書物を探していたり、草刈正雄さん演じる真田正幸は兵法を記していたりする。

 

どうも“読書=良いこと”ということは過去より普遍的に認識されていたことらしい。

 

そんなことを考えながら本屋に行ってみる。

最近では蔦屋書店を筆頭にオシャレな本屋が増えたことに象徴されるように、本の見せ方に気を使っていることが感じられる。

 

まず出会うのが新刊の本たち。

主にハウツー本であったり、ビジネス書だろう。

“〇分でできる▽△”や“簡単にわかる○○”など、最近は限りある時間の中で効率よく何かを教えてくれる本が流行っているらしい。

 

これらが店頭の目に付くところに並んでいるということは、これらが売れていることの証左だ。

極端な妄想だろうけれども、読書をしようと思ってまず手に取る可能性があるのがこれらだと思うと何か違和感を感じえない。

 

昔の人達(といっても大河ドラマで描かれている人達だけれど)は、これからの社会なり人生を選択していくために本を読んでいた。

今と違って、海外の情報は入ってこない。

しかし今は検索一つで大抵のことは分かってしまう。それに大学の講義もインターネットで見れるようになってきている。(一部だけれど論文も読むことが出来る)

 

ただ昔はすべての速度が遅かったために余白の時間が多かった。

今はそこをどう獲得するかでスマホ関連の企業やいろんな人が試行錯誤をしている。つまり余白はなくなってきている。

 

この余白の時間を昔の人達は“考えること”に使っていたのではないのかと思う。

電車に揺られている今の人達を見てみると、スマホをいじっている人や読書をしていても“ただ読むため”に本を読んでいる人、または受験生か何かでただ暗記しようとしている人を見かけるのではないか。

 

大切なことは“考えること”らしい。

読んだ本の中にある一文から、何を拾えるか。

みんなと一緒に大学に入って、みんなと一緒に就活して、就職してというレールに乗っかているけれども、昔と違ってひとりひとりにとって何が合うのかを選べる時代になることを期待するならば、“考えること”は必要不可欠なことなんだろう。

 

一方で考えることが大事ならばその道は本だけではないだろうという見方もできる。

だから、そこは積極的に選択するという問題なんだと思う。

 

ただ本を読むことで、どの時代の人とも触れることが出来て、何かを相対的に眺めることが出来るようになれば、妄信せずにいられるようになるのだろう。

 

そう思うと、僕はこうやって流行にのってBlogを書いていると思うとまだまだだなあと思う。

 

あれ、こんなことを書くつもりではなかったのにな。(笑) 

 

2016.10.02

こばやし