平和って大きいようで小さい話かも
■Blogを使って。
夏休みに入ったのでブログの更新頻度を上げたいと思います。
ここ数年、FacebookやTwitterを扱うようになり、文章を書く頻度は圧倒的に増えました。けれど、どれも短文であったり、内容が軽薄なものばかりのため描写能力が上がったとは思えません。
なので、夏休みに入ったことを機に、文章を書く訓練兼ねてBlogを継続的に行ってみたい。
もし何か思うところがあればコメントなりメッセください(笑)
文章のレベルをあげたいので。
■8月6日。
昨日、8月6日は広島に原爆が投下されてから70年の節目の日。
朝はNHKにて平和祈念式典の様子が放映されていました。また朝日新聞始め、広島市長などのスピーチの全文が報道されていました。
今年に入ってから、戦後70年ということで各方面様々な動きがみられ、「平和」とは何なのか今一度考える一年になっているのではないのかと思います。
また最近では安保関連法案にまつわる問題もそうでしょう。
みなさんにとって平和とは何でしょうか。
平和とは自分とは遠いものなのでしょうか。
■長崎、広島に行きましたよ
そう、今年は戦後70年なのです。
今年入ってから折に触れて発信していたつもりです。
その意識の中、この春に長崎・広島に訪れました。
長崎では現地の方と飲み、飲み会の場で「平和」について語り合いました。
広島では原爆ドーム中心に回り、お話しを聞きました。
長崎も、広島も、どちらも「平和」に対して向き合わざるを得ないような雰囲気が漂っていたと思います。
翻って、僕等はどうなのでしょう。
日々の中に「平和」「戦争」について考える、考えさせられる機会があるのでしょうか。
まああまりないですね(笑)
長崎・広島に行くまでは「平和」は身近なものではなくて、途上国支援の時に出てくるワードだと感じていました。
しかし、長崎・広島に行ってからは、身近なレベルでの「平和」について考えています。
「友人たちが楽しく過ごしている」
とか
「思いやりのある(自分の身の回りの)社会。」
とかね。
こういう日常って平和だと思うし、自分でもどうにかできる部分だと思います。
■「学生」と「平和」と時々「戦争」
ここでは「平和」と「戦争」と「学生」という枠で書きます。
先日、札幌では「戦争したくなくて、ふるえる」デモがありました。
他にも1200人規模のデモがあったりと、実は騒がしい今日この頃だと思います。
デモ自体は政治的手段として投票以外で僕等が持ちうるほぼ唯一の政治的手段なので、デモが日常化することは良いことなのだろうとは思っています。
しかし、僕はそこに同調するつもりはありません。
たしかに安保関連法案には反対です。
たしかにデモには共感できる部分がある。
でもその上で僕は賛同しません。
それは、まず自分の中で強烈な違和感があるからです。
論理的には細々に、様々にあるのですが、ここではこういう書き方をしたい。
そう、この一連の出来事に違和感を持っているから賛同しないのです。
小学生並の叙述ですけど、あえてね。
■平和には二つの顔があるらしい。
ここまで書いてきて、2パターンの平和について言及してきたことに気づくでしょうか。
ここらへんで広辞苑から引用します
へいわ【平和】
①やすらがにやわらぐこと・おだやかで変わりのないこと。「平和なこころ」「平和な家庭」
②戦争がなくて世が安寧であること。「世界の平和」
(広辞苑より)
この広辞苑の字義はなかなかに的確であると思います。
①は身近なところ、どちらかといえば個人の話。
②は大きい話。国とか世界とか。
ここから見えることがあります。
僕の違和感の源は
①の平和と②の平和が必ずしも一致しないということです。
今回の安保問題の一連の出来事にひきつけると、
デモでは大きな音を出して、大きな声を出して、
「反対」や「やめろ」など発します。
それは僕らの日々の瞬間としては
①の平和に反するものではないでしょうか。
簡単にいうと
世界平和を守るために日常の平和を減じている、のでしょう。
■僕は身近な平和しか守れない。
かっこつけるとこうなります↑(笑)
でも事実、自分には世界平和に労力を費やすより、自分のいる半径数メートルの社会の中での平和を作ることが向いていると思います。
今の活動でいえば、自分たちの住む「マチ」いついて考える契機を作ったり、ね。
こういう自分たちの活動で、少しでも自分の住む「マチ」を考えてくれる人が増えたら、
今は点かもしれないけど、それが線に、面になって、もっと良い社会になると信じています。
まあこんなでかいことは普段言わないけど、テーマがテーマなので許してくださいな。(笑)
今日も暑いですね。いま、北海道は激熱です。
2015.08.07
こばやし