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淡々とした毎日を送っていると、如何せん自分自身の変化に気づきにくくなっている気がすると共に、自分自身の純粋な部分を抉り出しているようで、なかなかに新鮮な感覚がある。
部活の大会で、ライン際で相手に接触し、靭帯を切ったのがちょうど六年前。
思い起こすと、あの時に入院先の病院でしばらく身動きが取れず、ぼんやりといろんなことを考えたことが一つの転機になっていたように思う。
村上春樹を集中的に読んだのはたしかあの時だった。
「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」「アフターダーク」とかとか。
久しぶりに「ノルウェイの森」を読もうと本棚を探したら、どうやら札幌に持って行ったらしく、なかった。
かれこれ4回ぐらいは読んでいるから内容は分かるけど、時々思い出したように読みたくなる時がある。
坂本龍一を聞きながら書いているせいか、話が暗い方向に向かっている気がする。
まあいっか。
改めて「ノルウェイの森」について書こうとは思えない。
あんな素晴らしい作品を僕の言葉で描けるほど自信がないからだけど。
いま、ふと思ったけど、僕があの本に惹かれるのは、“不在”を描いているからかもしれない。
誰かが突如消失する。
あまり身近には起こりえないことだから遠いように思えるかもしれないけど、振り返ると自分に大きな転換を迫るのはこのことだと思う。
そういえば大学生になってからはお互いにそれまで何があってみたいな話はしなくなった。
仲良い友人でも出身地以外のことを知らなかったりする。
なんでだろうね。
ちょうど今“戦場のメリークリスマス”のメインテーマがかかっている。
この曲は本当によいなと、最近思う。
映画の方はローレンスが地中に埋まり、顔だけが出ているという衝撃的な画を覚えているけれども、細かいストーリーは忘れてしまった。
よくよく振り返ると、僕が戦時のことに興味を持ち、文献を当たるようになったのはこれがきっかけかもしれない。
僕は僕でしかないから、他の人の感覚は分からないけれど、第二次世界大戦の年を知らないとかいう人が増えているらしい。
本当か?といつも思うんだけれど、本当だったら悲しいこと。
広島、長崎と周り、札幌でも第二次世界大戦でのことを聞きに行った身とすれば、何かできることを模索しなければならないかもしれないな。
まあこんなこと書いている暇があるなら、もっと僕自身が勉強しなければね。
大江健三郎の「死者の奢り・飼育」という短編を読んだ。
内容を簡潔に説明するのは難しいから、ぜひ読んでほしい(たった55ページ!)。
この時代というくくりでまとめていいことではないのだけれど、僕らの世代がどんどん年を取っていって50とか60とかになるころの日本で、こういう世界を描く人はいないだろうな。
なんか毎度毎度まとまりのない話ばかり書いていて申し訳ないな(笑)
P.S
12/12にKS家にて忘年会をやるので来れる人はぜひ。
連絡ください!
2016.11.23
こばやし