東京でカブトムシを見つけたとする。
自分の感覚とか意見を言葉にする機会がかなり少ないことが気がかりだから、こうしてできる限り文章を書いていこうと思う。
インターネットが浸透して、自分の思った事をすぐ発信できるようになっていたというものの、気が付くと、1000字とか2000字で文章を書くという機会がなくなっている。
まとまった文章を書く機会があったほうがいいのかと問われれば、一概にそうだとは言えない。
何事も簡単であることは素晴らしいのだけれども、だからこそ考えなくなることは困ったことなのであろうか。
もし、東京でカブトムシを見つけたとする。(変なたとえだけれど)
そしたら、今の僕らは写真を撮って、Twitterにあげるか、誰かにLINEするかするのではなかろうか。一週間後にはその出来事は忘れてしまう。
そういえば、僕らが小学校のころか幼稚園のころ「ぼくらの夏休み」というゲームがあった。
いまさら説明を要しないと思うのだけれど、夏休みにとある村に遊びに行くことになった小学生になって、自然で遊び、村の人に学びながら楽しい夏休みを過ごすというゲームだ。
(このゲーム、VRで楽しみたいな笑)
もし「ぼくらの夏休み」で描かれている世界にいるのだとしたら、道路にカブトムシを見つけたら間違いなく観察し、捕獲するだろう。
そして、友達の飼っている?カブトムシと相撲をさせるだろう。
想定されている年齢も違うし、極端な例ではあるけれども、カブトムシを見つけるという驚きは同じだけれども、そこから発現される行動はまったく異なる。
もしTwitterなどが無かったら、自分が感じた驚きを伝えるために、試行錯誤し、文章を組み立て、その上でどう話すかを考えるだろう。
そこで編まれた話には「○○で△△しました!」だけではなくて、自分のその時の驚きとか感覚とか事実以上にその人の空気感が出ているはず。
TwitterもFacebookも何かを“そのまま”出す場として存在している。
そこにはその人自身の偏りや、意図はなかなかに表れにくい(それにそういうことを書いたのならばマイナスに受け取られる可能性がある)。
そんなんだから、ただ繋がっている人の投稿をみても、何も思わないし、フォローを外してしまうことになるのではないだろうか。
どうやったら、その人らしさを残しながら多くの人とつながっていれるのだろうか。
身内限定SNSがあるように、もう一つの流れは徐々に閉鎖的な方向に向いている。
フラットに自分の考えを発現する場があったらもっと面白い。
深い思考をもっと表に出ている場があったら、もっと面白い。
そしたら人の言うことや顔色に埋もれなくて済むんじゃないのかな。
これ言ったら誰かに否定されるとか、そういう心配はそもそもちゃんと話合うことがないゆえに発生している。
自分の周りが自分たちの意見に合う人ばかりになったら、少し警戒したほうがいい。
歴史が示している。
分断ほど悲しいことはないよな。
2016.10.04
こばやし