哈爾浜麦酒と僕。
哈爾浜三日目。
今日は風が強い。
砂が舞っている。
視界が悪い。
中国に来るのは二回目。
前回、肺を悪くして半分入院した。
今日の砂っぽさはその時の記憶を思い起こさせた。
この国はどうも黄ばんでいるイメージがあるのは、この砂のせいだろうか。
ロシア文化が色濃く残る街、哈爾浜。
二日続けてロシア料理を頂いた。
中華料理より僕の舌に合うのは気のせいか。
今、哈爾浜麦酒を飲みながら、この文章を書いている。
哈爾浜麦酒はさっぱりとしていて飲みやすい。
持ち帰りたいがそうもいかない。
だからAmazonにないか調べようとしたが、どうも通じない。
遮断されているらしい。
こうして普段使っているものから分断されているところに身を置くと、
これまでに考えないようなことを考えるようになる。
例えば、「自分と社会との距離感」。
いわゆる自己相対化ということなのだろうか。
かなり極端な話、自分は全知全能ではなく、全体から見たら歯車の一個なのですよということ。
この前、NHK-BS Pでやっていた「東京ナイトフィッシング」という番組を見た。
その中でサカナクションの山口さんが言っていたことがある(たしか)。
“東京だとぼんやり夢を見ながら、とりあえず生きていける。”
前クールの月9でも似たようなことが描かれていたと記憶する。
どこか東京には自分の夢を叶える場所があって、東京にいればどうにかなるのではないのかという幻想。
“東京=日本で一番すごい”という幻想。
東京に生まれて、東京で育ってきたからこそ分かることがある。
東京の幻想は東京独特のものだと思う。
夢を見せてくれる街、東京。
札幌から東京に出ていった先輩達はなにを描いているのかは分からないけれども、
どうか自分の夢への道程を進んでほしいと本当に願う。
翻って、今僕は哈爾浜にいる。
僕が泊まっているところは、どちらかと言えば(日本でいう)住宅地にあたるところにある。
道で物売りをしている人もいれば、ホームレスらしき人もいる(この国では特段珍しいものではない)。
そんなところに僕は今いる。
世界で二番ともいわれる経済大国、中国。
ただ実際のところ市井の人達の生活をみると、僕は日本にいることを幸せだと感じてしまう。
これは彼等が僕より幸せではないということではなく、経済大国であるところで(またそれを目指すところで)そこに国民の幸せはあるのか、ということである。
市井の人として生きる彼等には、東京で描かれるような夢はあるのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
ある程度、治安が安定し、
ある程度、インフラが整い、
ある程度、教育への意識が高い
日本だからこそ、生まれた幻想であろう。
北海道にいる身として、
強く感じる“東京”へのあこがれ。
東京出身というだけで、どこか別次元だと思われるあの断絶。
東京は不思議だ。
久しぶりに日本の外に出た。
二年前、この国に来た時のような“震え”はなかった。
あの“震え”に少し期待していた部分もあった。
だが、自分自身の“シコウ”をまた一つ進める意味では、すでに大きな収穫があったといっても良いだろう。
やはり何事も一歩前進させることには“外に出る”作業は欠かせないのかもしれない。
ただ僕は内向的な人間だと自分では思っている。
人と関わることにかけては、かなりの時間を思考に費やした上で、事を進める。
(自分ごとに関しては即決即断なのだが、、、、)
どこか“ま、どうにかなるよ”では済ましたくない心の障壁を抱えている。
これから考えるべきことの一つなのだろう。
こうやって少しづつ、自分の思考を言葉にしていく作業を繰り返せば、
どこかまた自分自身が変わっていけるような期待を抱いている。
だから書いてみる。
こうやって
自分の思考を開いて何になるのかは分からない。
もしかしたら現実の環境に影響を及ぼすかもしれない。
ただ、もしこれがマイナスになったとしても、
もうこれまでと同じ=維持をするように努めることはしたくはない。
中途半端に守ってきたものを捨てていかないと。
捨てていかないと、大事な“何か”を逸してしまう気がする。
それだけ今時間に追われているということなのか。
2016.4.6
こばやし