意思。
哈爾浜四日目。
昨日に続いて、今日も風が強い。
昨日の哈爾浜は20度あった。まるで東京のような暖かさ。
しかし今日は10度前後。
予報によると明日は-5度まで下がるそうだ。
どうも僕は遠軽より寒いという驚きの環境にいるらしい。
ここ二日ぐらい、やっと写真を撮り始めた。
幸いなことに、僕の写真好きだよ、と言ってくれる友人がいる。
だから改めて自分が何を撮ってきて、何を撮りたいのか考えながら過ごしている。
(別に好きでやってるんだから、考えなくていいだろうというのは思うが、)
写真を撮るという行為は坂本龍馬とかその昔からある。
写真の歴史については詳しくはないが、二百年やそれぐらいのことなのだろうと思う。
写真はその時代、その時代を切り取っていく、伝えていく。
歓喜も
惨禍も
いま、リアリティをもつ媒体として、写真は自分にいろんなことを教えてくれているのだと思う。
一方、ここ数年、ほぼ誰もが写真を撮れるようになっている。
道を歩けばだれかがスマホで写真を撮っている。
何かことが起これば、そこには野次馬のように人が群がり、写真を撮る。
昨日、哈爾浜で火災があったのだが、そこには何かの群れの様にスマホ片手に人々が集まっていた。
彼等は何のために写真を撮るのだろうか。
みなで写真を共有できるようになった昨今、恐らくそれらの写真は誰かにミセルために撮られたのだろう。
写真を撮った人々はせっせと加工し、何かしらに投稿する。
これが今の写真のあり方なのかもしれない。
写真を撮る前から、絵が出来上がっているかのような気もする。
もとからあるイメージに沿わないものは破棄される。
このことは哈爾浜に来てからの大きな問いの一つである。
やはり切り取りたい部分は、自分が元から抱いている「中国像」に合致する部分なのであろうか。
結局は“いわゆる中国”に行ったことを確認したいだけなのだろうか。
それ自体は否定されることではない。
だが、考えてしまうのである。
今のところは、
“いま、この瞬間に生きていたことの証”
として写真を撮れたら幸せなことなのだと思っている。
こんな青いことを言ってもどうしようもないことなのだけれども、
僕がとった写真を見る人が、“いま、こういう時にいるんだなあ”とか“いま、楽しい”とか少しでも感じてくれれば、少しでも写真を出す意義はあるのかもしれない。
長々と書いてしまったけれど、僕は写真を撮ること見ること自体が好きだから、細々と続けていきたい。
2016.4.7夕方
こばやし
追伸。
せっかくなので二枚写真を載せたい。
一枚目は聖ソフィア聖堂。哈爾浜のシンボルだといえる。二日目に撮った。
二枚目はスターリン公園から見た日没。どこか平和を感じる。
中国というと、どこか下に見がちだけれども、変わらないところは変わらない。