自分+ひと=世界
こっちで偶然というか必然なんだろうなという環境であることが判明して、2年前の反省を活かさなきゃと腹をくくった昼の休憩です。
2年前、僕が部活をやっていた時の反省が今を生かしてるな、と思う。
ここら辺の話はプライバシー云々あるんで書けませんが、聞きたい人は直接話します。
遠軽町社名淵19日目
地域の人から良くして頂いていて、いろんなものをもらったり、話したりできる環境になってきました。
やっとね。
結局、やるかやらないかの差なんだな、と改めて感じます。
地域の集まりに顔を出すか、つかれてるから休むか、どちらを取るかは人それぞれだけど、やはり自分の環境をつくるのは人だと考えるので、動いています。
ただ地域を歩いても、三回に一回ぐらしか人と会えないので、たいていは読書して過ごしていますが。(笑)
社名淵で過ごす日々もの残り10日ぐらいになってきました。
ずーーーと書いてるけど、札幌でのこれからを考え始めています。
せっかくなら関わる人達の見ている景色に彩を加えられるような、そんな時間を過ごしたい。
31日久しぶりにかけがいのない友人たちと顔を合わせるので、ほんと楽しみ。
(社名淵、どんだけだよ、というツッコミは我慢してください)
もし4月から何かできるなら、大きなものをやりたいなと思っています。
そうなったらかなり人を巻き込むんで、覚悟しなきゃいけませんね。
極論、自分の都合で、だれかの人生のほんの一部だったとしても、使わせるわけなので。
人と何かやるって、本当に覚悟のいることだと思います。
それが学生団体だったとしても、部活だったとしても、たぶん会社とかでも不変の事実でしょうね。
いま、遠軽町社名淵という辺鄙なところに身を置いていて、毎日生き物の相手をして過ごしてます。
分かってはいたけれども、経済動物として生まれてきた牛たちは人間の都合で生かされたり殺されたりしています。
そこにいままでぼんやりしていた現実感が屹立とあって、僕等が満足に生きていくためには仕方のないことだと分かっていても、違和感を覚えてしまいます。
これまで東京で18年、北海道で3年生きてきて、人間が構築した幻の中に飼われることに対してかなり違和感を覚えてきました。
ただそれの裏返しとして、その援用によって、小さくても団体をやってこれたことは皮肉としかいいようがないでしょうね。
反発しようとしてきたけれども。
だから、これから何かやるにしても、これまでとはまた違うやり方を取るだろうし、
この二か月で得てきた実感がまた一段と自分を引き上げているから、期待はできるという感覚がある。
だから、また何か始めようという気分になっているわけで、ちゃんと出していきたいな、と。
牛の糞尿の臭いが示唆する、どこか浮いているような生の感覚が、僕に哲学的問いを突き付けています。
この問いへどこまで向き合えるかが、残り10日間の僕の一つのチャレンジになるのかな。
最初にやるかやらないかと書いていて、ここでは考えることをあげています。
どこか矛盾しているのではないかと思われるかもしれないけれど、
まあそんなもんでしょ(笑)
2016.3.20
こばやし
こっちで偶然というか必然なんだろうなという環境であることが判明して、2年前の反省を活かさなきゃと腹をくくった昼の休憩です。
2年前、僕が部活をやっていた時の反省が今を生かしてるな、と思う。
ここら辺の話はプライバシー云々あるんで書けませんが、聞きたい人は直接話します。
遠軽町社名淵19日目
地域の人から良くして頂いていて、いろんなものをもらったり、話したりできる環境になってきました。
やっとね。
結局、やるかやらないかの差なんだな、と改めて感じます。
地域の集まりに顔を出すか、つかれてるから休むか、どちらを取るかは人それぞれだけど、やはり自分の環境をつくるのは人だと考えるので、動いています。
ただ地域を歩いても、三回に一回ぐらしか人と会えないので、たいていは読書して過ごしていますが。(笑)
社名淵で過ごす日々もの残り10日ぐらいになってきました。
ずーーーと書いてるけど、札幌でのこれからを考え始めています。
せっかくなら関わる人達の見ている景色に彩を加えられるような、そんな時間を過ごしたい。
31日久しぶりにかけがいのない友人たちと顔を合わせるので、ほんと楽しみ。
(社名淵、どんだけだよ、というツッコミは我慢してください)
もし4月から何かできるなら、大きなものをやりたいなと思っています。
そうなったらかなり人を巻き込むんで、覚悟しなきゃいけませんね。
極論、自分の都合で、だれかの人生のほんの一部だったとしても、使わせるわけなので。
人と何かやるって、本当に覚悟のいることだと思います。
それが学生団体だったとしても、部活だったとしても、たぶん会社とかでも不変の事実でしょうね。
いま、遠軽町社名淵という辺鄙なところに身を置いていて、毎日生き物の相手をして過ごしてます。
分かってはいたけれども、経済動物として生まれてきた牛たちは人間の都合で生かされたり殺されたりしています。
そこにいままでぼんやりしていた現実感が屹立とあって、僕等が満足に生きていくためには仕方のないことだと分かっていても、違和感を覚えてしまいます。
これまで東京で18年、北海道で3年生きてきて、人間が構築した幻の中に飼われることに対してかなり違和感を覚えてきました。
ただそれの裏返しとして、その援用によって、小さくても団体をやってこれたことは皮肉としかいいようがないでしょうね。
反発しようとしてきたけれども。
だから、これから何かやるにしても、これまでとはまた違うやり方を取るだろうし、
この二か月で得てきた実感がまた一段と自分を引き上げているから、期待はできるという感覚がある。
だから、また何か始めようという気分になっているわけで、ちゃんと出していきたいな、と。
牛の糞尿の臭いが示唆する、どこか浮いているような生の感覚が、僕に哲学的問いを突き付けています。
この問いへどこまで向き合えるかが、残り10日間の僕の一つのチャレンジになるのかな。
最初にやるかやらないかと書いていて、ここでは考えることをあげています。
どこか矛盾しているのではないかと思われるかもしれないけれど、まあそんなもんでしょ(笑)
2016.3.20
こばやし